許りなき心悲《うらがな》しい感情を起させた。所々降つて来さうな秋の星、八日許りの片割月《かたわれづき》が浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中央程《なかほど》の郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう湿声《うるみごゑ》になつて、断々《きれぎれ》に語りながら、他所《よそ》ながら家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟行《さまよ》うた。路で逢ふ人には、何日《いつ》になく忸々《なれなれ》しく此方から優しい声を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は※[#「巾+扮のつくり」、143−下−3]※[#「巾+兌」、143−下−3]《ハンケチ》を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何処ともない笑声、子供の泣く声もする。とある居酒屋の入口からは、火光《あかり》が眩《まばゆ》く洩れて、街路《みち》を横さまに白い線を引いてゐたが、虫の音も憚からぬ酔うた濁声《だみごゑ》が、時々けたゝましい其店の嬶の笑声を伴つて、喧嘩でもあるかの様に一町先までも聞える。二人は其騒々しい声すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。
 それでも、二時間も歩いてるうちには、気の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタ/\と家路に帰るお定の眼には、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人を彼是と数へてゐた。此村《ここ》から東京へ百四十五里、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は知らぬ。東京は仙台といふ所より遠いか近いか、それも知らぬ。唯明日は東京にゆくのだと許り考へてゐる。
 枕に就くと、今日位身体も心も急がしかつた事がない様な気がして、それでも、何となく物足らぬ様な、心悲《うらがな》しい様な、恍乎《うつとり》とした疲心地で、すぐうと/\と眠つて了つた。

 ふと目が覚めると、消すのを忘れて眠つた枕辺《まくらもと》の手ランプの影に、何処から入つて来たか、蟋蟀《こほろぎ》が二|疋《ひき》、可憐な羽を顫はして啼いてゐる。遠くで若者《わかいもの》が吹く笛の音のする所から見れば、まだ左程夜が更けてもゐぬらしい。
 と櫺子の外にコツコツと格子を叩く音がする。あ之で目が覚めたのだなと思つて、お定は直ぐ起き上つて、密《こつそ》りと格子を脱《はづ》した。丑之助が身軽に入つて了つた。
 手ランプを消した。
 一時間許り経つと、丑之助がもう帰準備《かへりじたく》をするので、これも今夜|限《きり》だと思ふと、お定は急に愛惜の情が喉に塞つて来て、熱い涙が滝の如く溢れた。別に丑之助に未練を残すでも何でもないが、唯もう悲しさが一時に胸を充たしたので、お定は矢庭に両手で力の限り男を抱擁《だきし》めた。男は暗《やみ》の中にも、遂ぞ無い事なので吃驚《びつくり》して、目を円《まろ》くしてゐたが、やがてお定は忍音《しのびね》に歔欷《すすりなき》し始めた。
 丑之助は何の事とも解りかねた。或は此お定ツ子が自分に惚れたのぢやないかとも思つたが、何しろ余り突然なので、唯目を円くするのみだ。
『怎したけな?』と囁いてみたが返事がなくて一層|歔欷《すすりな》く。と、平常《ひごろ》から此女の穏《おとな》しく優しかつたのが、俄かに可憐《いぢらし》くなつて来て、丑之助は再《また》、
『怎したけな、真《ほんと》に?』と繰返した。『俺ア何か悪い事でもしたげえ?』
 お定は男の胸に密接《ぴたり》と顔を推着《おつつ》けた儘で、強く頭を振つた。男はもう無性にお定が可憐《いぢらし》くなつて、
『だら怎したゞよ? 俺ア此頃|少許《すこし》急しくて四日許り来ねえでたのを、汝《うな》ア憤《おこ》つたのげえ?』
『嘘だ!』とお定は囁く。
『嘘でねえでヤ。俺ア真実《ほんと》に、汝《うな》アせえ承知して呉《け》えれば、夫婦《いつしよ》になりてえど思つてるのに。』
『嘘だ!』とお定はまた繰返して、一層強く男の胸に顔を埋めた。
 暫しは女の歔欷《すすりな》く声のみ聞えてゐたが、丑之助は、其漸く間断々々《とぎれとぎれ》になるのを待つて、
『汝《うな》ア頬片《ほつぺた》、何時来ても天鵞絨《ビロウド》みてえだな。十四五の娘子《めらしご》と寝る様だ。』と言つた。これは此若者が、殆んど来る毎にお定に言つてゆく讃辞《ことば》なので。
『十四五の娘子供《めらしやど》とも寝てるだべせア。』とお定は鼻をつまらせ乍ら言つた。男は、女の機嫌の稍《やや》直つたのを見て、
『嘘だあでヤ。俺ア、酒でも飲んだ時ア他《ほか》の女子《をなご》さも行《え》ぐども、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんた》に浮気ばしてねえでヤ。』
 お定は、胸の中で、此丑之助にだけは東京行の話をしても可か
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