拵へて呉れるし、婚礼の時は村の人の誰も知らぬ「高砂」の謡をやる。加之《のみならず》何事にも器用な人で、割烹《れうり》の心得もあれば、植木|弄《いじ》りも好き、義太夫と接木《つぎき》が巧者《じやうず》で、或時は白井様の子供衆のために、大奉《だいほう》八枚張の大紙鳶《おほたこ》を拵へた事もあつた。其処此処の夫婦喧嘩や親子喧嘩に仲裁を怠らなかつたは無論の事。
左《さ》う右《か》うしてるうちに、お定は小学校も尋常科だけ卒へて、子守をしてる間に赤い袖口が好きになり、髪の油に汚れた手拭を独自《ひとりで》に洗つて冠る様になつた。土土用《つちどよう》が過ぎて、肥料《こえ》つけの馬の手綱を執る様になると、もう自づと男羞しい少女心が萌《きざ》して来て、盆の踊に夜を明すのが何よりも楽しい。随つて、ノロ勘の朋輩の若衆《わかいしゆ》が、無駄口を戦はしてゐる理髪師の店にも、おのづと見舞ふ事が稀になつたが、其頃の事、源助さんの息子さんだといふ、親に似ぬ色白の、背のすらりとした若い男が、三月許りも来てゐた事があつた。
お定が十五(?)の年、も少許《すこし》で盆が来るといふ暑気《あつさ》盛りの、踊に着る浴衣やら何やらの心構へで、娘共にとつては一時も気の落着く暇がない頃であつた。源助さんは、郷里《くに》(と言つても、唯上方と許りしか知らなかつたが、)にゐる父親が死んだとかで、俄かに荷造をして、それでも暇乞だけは家毎《いへごと》にして、家毎から御餞別を貰つて、飼馴《かひなら》した籠の鳥でも逃げるかの様に村中から惜まれて、自分でも甚《いた》く残惜しさうにして、二三日の中にフイと立つて了つた。立つ時は、お定も人々と共に、一里許りのステイシヨンまで見送つたのであつたが、其|帰途《かへり》、とある路傍《みちばた》の田に、稲の穂が五六本出|初《そ》めてゐたのを見て、せめて初米の餅でも搗《つ》くまで居れば可いのにと、誰やらが呟いた事を、今でも夢の様に記憶《おぼ》えて居る。
何しろ極く狭い田舎なので、それに足下《あしもと》から鳥が飛立つ様な別れ方であつたから、源助一人の立つた後は、祭礼《おまつり》の翌日《あくるひ》か、男許りの田植の様で、何としても物足らぬ。閑人の誰彼は、所在無げな顔をして、呆然《ぼんやり》と門口に立つてゐた。一月許りは、寄ると触ると行つた人の話で、立つ時は白井様で二十円呉れたさうだし、村中から
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