の御餞別を合せると、五十円位集つたらうと、羨ましさうに計算する者もあつた。それ許りぢやない、源助さんは此五六年に、百八十両もおツ貯めたげなと、知つたか振をする爺もあつた。が、此源助が、白井様の分家の、四六時中《しよつちゆう》リユウマチで臥《ね》てゐる奥様に、或る特別の慇懃《いんぎん》を通じて居た事は、誰一人知る者がなかつた。
 二十日許りも過ぎてからだつたらうか、源助の礼状の葉書が、三十枚も一度に此村に舞込んだ。それが又、それ相応に一々文句が違つてると云ふので、人々は今更の様に事々しく、渠の万事《よろづ》に才が廻つて、器用であつた事を語り合つた。其後も、月に一度、三月に二度と、一年半程の間は、誰へとも限らず、源助の音信があつたものだ。
 理髪店《とこや》の店は、其頃兎や角一人前になつたノロ勘が譲られたので、唯《たつた》一軒しか無い僥倖《しあはせ》には、其|間《ま》が抜けた無駄口に華客《おきやく》を減らす事もなく、かの凸凹の大きな姿見が、今猶人の顔を長く見せたり、扁《ひらた》く見せたりしてゐる。
 其源助さんが四年振で、突然遣つて来たといふのだから、もう殆ど忘れて了つてゐた村の人達が、男といはず女といはず、腰の曲つた老人《としより》や子供等まで、異様に驚いて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つたのも無理はない。

     二

 それは盆が過ぎて二十日と経たぬ頃の事であつた。午中《ひるなか》三時間許りの間は、夏の最中《もなか》にも劣らぬ暑気で、澄みきつた空からは習《そよ》との風も吹いて来ず、素足の娘共は、日に焼けた礫《こいし》の熱いのを避けて、軒下の土の湿りを歩くのであるが、裏畑の梨の樹の下に落ちて死ぬ蝉の数と共に、秋の香《かをり》が段々深くなつて行く。日出《ひので》前の水汲に素袷《すあはせ》の襟元寒く、夜は村を埋めて了ふ程の虫の声。田といふ田には稲の穂が、琥珀色に寄せつ返しつ波打つてゐたが、然し、今年は例年よりも作が遙《ずつ》と劣つてゐると人々が呟《こぼ》しあつてゐた。
 春から、夏から、待ちに待つた陰暦の盂蘭盆《うらぼん》が来ると、村は若い男と若い女の村になる。三晩続けて徹夜《よどほし》に踊つても、猶踊り足らなくて、雨でも降れば格別、大抵二十日盆が過ぎるまでは、太鼓の音に村中の老人《としより》達が寝つかれぬと口説く。それが済めば、苟《いやし》
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