りが四種五種列べてあるに過ぎなかつたが、然しお定は、其前に立つと、妙な心地になつた。何とやらいふ菜に茄子が十許り、脹切《はちき》れさうによく出來た玉菜《キャベーヂ》が五個六個《いつゝむつゝ》、それだけではあるけれ共、野良育ちのお定には此上なく慕かしい野菜の香が、仄かに胸を爽《さわや》かにする。お定は、露を帶びた裏畑を頭に描き出した。ああ、あの紫色の茄子の畝《うね》! 這ひ蔓《はびこ》つた葉に地面を隱した瓜畑! 水の樣な曉の光に風も立たず、一夜さを鳴き細つた蟲の聲!
 萎びた黒繻子の帶を、ダラシなく尻に垂れた内儀《おかみ》に、『入來《いらつ》しやい。』と聲をかけられたお定は、もうキヤベーヂといふ語を忘れてゐたので、唯『それを』と指さした。葱は生憎《あひにく》一把もなかつた。
 風呂敷に包んだ玉菜一個を、お定は大事相に胸に抱いて、仍且《やはり》郷里《くに》の事を思ひながら主家に歸つた。勝手口から入ると、奧樣が見えぬ。お定は密《こつそ》りと玉菜を出して、膝の上に載せた儘、暫時《しばし》は飽かずも其香を嗅いでゐた。
『何してるだらう、お定は?』と、直ぐ背後《うしろ》から聲をかけられた時の不愍《
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