左に曲つて、菊坂町に入つた所であつた。お定は一寸振返つてお八重を見た。
 軈て腕車が止つて、『山田理髮店』と看板を出した明るい家の前。源助に促されて硝子戸の中に入ると、目が眩む程明るくて、壁に列んだ幾面の大鏡、洋燈《ランプ》が幾つも幾つもあつて、白い物を着た職人が幾人も幾人もゐる。何《ど》れが實際の人で何れが鏡の中の人なやら、見分もつかぬうちに、また源助に促されて、其店の片隅から疊を布いた所に上つた。
 上つたは可《い》いが、何處に坐れば可いのか一寸|周章《あわて》て了つて、二人は暫し其所に立つてゐた。源助は、
『東京は流石に暑い。腕車《くるま》の上で汗が出たから喃。』と言つて突然《いきなり》羽織を脱いで投げようとすると、三十六七の小作《こづく》りな内儀《おかみ》さんらしい人がそれを受取つた。
『怎《どう》だ、俺の留守中何も變りはなかつたかえ?』
『別に。』
 源助は、長火鉢の彼方《あつち》へドッカと胡坐《あぐら》をかいて、
『さあ/\、お前さん達もお坐《すわ》んなさい。さあ、ずつと此方《こつち》へ。』
『さあ、何卒《どうぞ》。』と内儀《おかみ》さんも言つて、不思議相に二人を見た。二人
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