ぜ。』
『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。
『お定ッ子も行《え》ぐのがえ?』
 お定は一寸|狼狽《うろた》へてお八重の顏を見た。お八重は又笑つて、『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』
『ハア、俺ア老人《としより》だで可えが、黒馬《あを》の奴ア怠屈《てえくつ》しねえで喜ぶでヤ。だら、明日《あした》ア早く來て御座《ごぜ》え。』

 此日は、二人にとつて此上もない忙がしい日であつた。お定は水汲から歸ると直ぐ朝草刈に平田野《へいたの》へ行つたが、莫迦に氣がそは/\して、朝露に濡れた利鎌《とがま》が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無數の露の美しさ。秋草の香が初簟《はつたけ》の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌の動く毎に、サッサッと音して寢る草には、萎枯《すが》れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往來する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例《いつも》より餘程長くかかつた。
 朝草を刈つて來てから、馬の手入を濟ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り殘してある山
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