一緒に晩餐《めし》を了へて、明日の朝は一番汽車だからといふので、其晩二人も其宿屋に泊る事にした。
源助は、唯一本の銚子に一時間も費《かゝ》りながら、東京へ行つてからの事――言語《ことば》を可成《なるべく》早く改《あらた》めねばならぬとか、二人がまだ見た事のない電車への乘方とか、掏摸《すり》に氣を附けねばならぬとか、種々《いろ/\》な事を詳《くど》く喋《しやべ》つて聞かして、九時頃に寢る事になつた。八疊間に寢具が三つ、二人は何れへ寢たものかと立つてゐると、源助は中央《まんなか》の床へ潜り込んで了つた。仕方がないので二人は右と左に離れて寢たが、夜中になつてお定が一寸目を覺ました時は、細めて置いた筈の、自分の枕邊《まくらもと》の洋燈《ランプ》が消えてゐて、源助の高い鼾《いびき》が、怎《どう》やら疊三疊許り彼方《あつち》に聞えてゐた。
翌朝は二人共源助に呼起されて、髮を結ふも朝飯を食ふも夙卒《そゝくさ》に、五時發の上り一番汽車に乘つた。
七
途中で機關車に故障があつた爲、三人を乘せた汽車[#「車」は底本では「軍」]が上野に着いた時は、其日の夜の七時過であつた。長い長いプラットホォーム、潮の樣な人、お八重もお定も唯小さくなつて源助の兩袂に縋つた儘、漸々《やう/\》の思で改札口から吐出されると、何百輛とも數知れず列んだ腕車、廣場の彼方は晝を欺く滿街の燈火、お定はもう之だけで氣を失ふ位おッ魂消《たまげ》て了つた。
腕車《くるま》が三輛、源助にお定にお八重といふ順で驅け出した。お定は生れて初めて腕車に乘つた。まだ見た事のない夢を見てゐる樣な心地で、東京もなければ村もない、自分といふものも何處へ行つたやら、在るものは前の腕車に源助の後姿許り。唯|※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼんやり》として了つて、別に街々の賑ひを仔細に見るでもなかつた。燦爛たる火光《あかり》、千萬の物音を合せた樣な轟々たる都の響、其火光がお定を溶かして了ひさうだ。其響がお定を押潰して了ひさうだ。お定は唯もう膝の上に載せた萠黄の風呂敷包を、生命よりも大事に抱いて、胸の動悸を聽いてゐた。四邊《あたり》を數限りなき美しい人立派な人が通る樣だ。高い高い家もあつた樣た。
少し暗い所へ來て、ホッと息を吐いた時は、腕車が恰度《ちやうど》本郷四丁目から
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