[#「巾+分」、178−下−14]※[#「巾+税のつくり」、178−下−14]《はんけち》を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何處ともない笑聲、子供の泣く聲もする。とある居酒屋の入口からは、火光《あかり》が眩《まぶし》く洩れて、街路を横さまに白い線を引いてゐたが、蟲の音も憚からぬ醉うた濁聲《だみごゑ》が、時々けたゝましい其店の嬶の笑聲を伴つて、喧嘩でもあるかの樣に一町先までも聞える。二人は其騷々しい聲すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。
 それでも、二時間も歩いてるうちには、氣の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタスタと家路に歸るお定の眼にはに、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人をを彼是《あれこれ》と數へてゐた。此村《こゝ》から東京へ百四十五里、其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》事は知らぬ。東京は仙臺といふ所より遠いか近いかそれも知らぬ。唯明日は東京にゆくのだと許り考へてゐる。
 枕に就くと、今日位身體も心も急がしかつた事がない樣な氣がして、それでも何となく物足らぬ樣な、心《うら》悲しい樣な、恍乎《ぼうつ》とした疲心地《つかれごゝち》で、すぐうと/\と眠つて了た。

 ふと目が覺めると、消すを忘れて眠つた枕邊《まくらもと》の手ランプの影に、何處から入つて來たか、蟋蟀《こほろぎ》が二匹、可憐な羽を顫はして啼いてゐる。遠くで若者が吹く笛の音のする所から見れば、まだ左程夜が更けてもゐぬらしい。
 と櫺子《れんじ》の外にコツコツと格子を叩く音がする。あ之で目が覺めたのだなと思つて、お定は直ぐ起上つて、密《こつそ》りと格子を脱《はづ》した。丑之助が身輕《みがる》に入つて了つた。
 手ランプを消して、一時間許り經《た》つと、丑之助がもう歸準備《かへりじたく》をするので、これも今夜|限《きり》だと思ふとお定は急に愛惜の情が喉に塞つて來て、熱い涙が瀧の如く溢れた。別に丑之助に未練を殘すでも何でもないが、唯もう悲さが一時に胸を充たしたので、お定は矢庭に兩手で力の限り男を抱擁《だきし》めた。男は暗の中にも、遂ぞ無い事なので吃驚《びつくり》して、目を圓くもしてゐたが、やがてお定は忍び音で歔欷《すゝりなき》し始めた。
 丑之助は何の事とも解りかねた。或は此お定ツ子が自分に惚れたのぢやないかとも思つたが、何
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