農家の常とて夕餉は日が暮れてから濟ましたが、お定は明日着て行く衣服《きもの》を疊み直して置くと云つて、手ランプを持つた儘、寢室にしてゐる四疊半許りの板敷に入つた。間もなくお八重が訪ねて來て、さり氣ない顏をして入つたが、
『明日着て行ぐ衣服《きもの》すか?』と、態《わざ》と大きい聲で言つた。
『然うす。明日着て行ぐで、疊み直してるす。』と、お定も態《わざ》と高く答えて、二人目を見合せて笑つた。
 お八重は、もう全然《すつかり》準備《したく》が出來たといふ事で、今其風呂敷包は三つとも持出して來たが、此家《こゝ》の入口の暗い土間に隱して置いて入つたと言ふ事であつた。で、お定も急がしく萠黄の大風呂敷を擴げて、手※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りの物を集め出したが、衣服といつても唯《たつた》六七枚、帶も二筋、娘心には色々と不滿があつて、この袷は少し老《ふ》けてゐるとか、此袖口が餘り開き過ぎてゐるとか、密《ひそ》々話に小一時間もかゝつて、漸々《やう/\》準備《したく》が出來た。
 父も母もまだ爐邊《ろばた》に起きてるので、も少し待つてから持出さうと、お八重は言ひ出したが、お定は些《ち》と躊躇してから、立つと明《あかり》とりの煤けた櫺子《れんじ》に手をかけると、端の方三本許り、格子が何の事もなく取れた。それを見たお八重は、お定の肩を叩いて、
『この人《しと》アまあ、可え工夫してるごど。』と笑つた。お定も心持顏を赧くして笑つたが、風呂敷包は、難なく其處から戸外へ吊り下された。格子は元の通りに直された。
 二人はそれから權作老爺の許へ行つて、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷やかな夜風が、耳を聾する許りな蟲の聲を漂はせて、今夜限り此生れ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう許りない心《うら》悲しい感情を起させた。所々降つて來さうな秋の星、八日許りの片割月が浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中央程《なかほど》の郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう濕聲《うるみごゑ》になつて、片々に語りながら、他所ながらも家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟行《さまよ》うた。路で逢ふ人には、何日《いつ》になく忸々《なれ/\》しく此方《こつち》から優しい聲を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は※
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