、中から胴間聲《どまごゑ》がする。
二人は目を見合して、ニッコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車|追《ひき》の老爺は丁度厩の前で乾秣《やた》を刻むところであつた。
『明日《あした》盛岡さ行ぐすか?』
『明日がえ? 行くどもせア。權作ア此|老年《とし》になるだが、馬車|曳《ふ》つぱらねえでヤ、腹減つて斃死《くたば》るだあよ。』
『だら、少許《すこし》持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』
『何程《なんぼ》でも可えだ。明日ア歸《けえ》り荷《に》だで、行ぐ時《どき》ア空馬車|曳《ふ》つぱつて行ぐのだもの。』
『其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》に澤山《たんと》でも無えす。俺等《おら》も明日《あした》盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』
『そんだら、ハア、お前達も馬車さ乘つてつたら可《え》がべせア。』
二人は又目を見合して、二言三言|喋《しめ》し合つてゐたが、
『でア老爺《おやぢ》な、俺等《おら》も乘せでつて貰ふす。』
『然《さ》うして御座《ごぜ》え。唯、巣子《すご》の掛茶屋さ行つたら、盛切酒《もつきりざけ》一|杯《ぺえ》買ふだアぜ。』
『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。
『お定ッ子も行《え》ぐのがえ?』
お定は一寸|狼狽《うろた》へてお八重の顏を見た。お八重は又笑つて、『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』
『ハア、俺ア老人《としより》だで可えが、黒馬《あを》の奴ア怠屈《てえくつ》しねえで喜ぶでヤ。だら、明日《あした》ア早く來て御座《ごぜ》え。』
此日は、二人にとつて此上もない忙がしい日であつた。お定は水汲から歸ると直ぐ朝草刈に平田野《へいたの》へ行つたが、莫迦に氣がそは/\して、朝露に濡れた利鎌《とがま》が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無數の露の美しさ。秋草の香が初簟《はつたけ》の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌の動く毎に、サッサッと音して寢る草には、萎枯《すが》れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往來する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例《いつも》より餘程長くかかつた。
朝草を刈つて來てから、馬の手入を濟ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り殘してある山
前へ
次へ
全41ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング