八重の小さな妹が驅けて來て、一寸來て呉れといふ姉の傳言《ことづて》を傳へた。
 また曩日《いつか》の樣に、今夜何處かに酒宴《さかもり》でもあるのかと考へて、お定は愼《つつま》しやかに水潦《みづたまり》を避けながら、大工の家へ行つた。お八重は欣々《いそ/\》と迎へたが、何か四邊《あたり》を憚《はゞか》る樣子で、密《そつ》と裏口へ伴《つ》れて出た。
『何處さ行《え》げや?』と大工の妻は爐邊《ろばた》から聲をかけたが、お八重は後も振向かずに、
『裏さ。』と答へた儘。戸を開けると、※[#「鷄」の「鳥」に代えて「ふるとり」、第3水準1−93−66]が三羽、こツこツといひながら入つた。
 二人は、裏畑の中の材木小屋に入つて、積み重ねた角材に凭《もた》れ乍ら、雨に濕《しめ》つた新しい木の香を嗅いで、小一時間許りも密々《ひそ/\》語つてゐた。
 お八重の話は、お定にとつて少しも思設《おもひもう》けぬ事であつた。
『お定さん。お前も聞いたべす、源助さんから昨晩《ゆべな》、東京の話を。』
『聞いたす。』と穩かに言つて、お八重の顏を打瞶《うちまも》つたが、何故か「東京」の語一つだけで、胸が遽かに動悸がして來る樣な氣がした。
 稍あつて、お八重は、源助さんと一緒に東京に行かぬかと言ひ出した。お定にとつては、無論|思設《おもひもう》けぬ相談ではあつたが、然し、盆|過《すぎ》のがつかりした心に源助を見た娘には、必ずしも全然縁のない話でもない。切《しき》りなしに騷ぎ出す胸に、兩手を重ねながら、お定は大きい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、言葉少なにお八重の言ふ所を聞いた。
 お八重は、もう自分一人は確然《ちやん》と決心してる樣な口吻《くちぶり》で、聲は低いが、眼が若々しくも輝く。親に言へば無論容易に許さるべき事でないから、默つて行くと言ふ事で、請賣《うけうり》の東京の話を長々とした後、怎《どう》せ生れたからには恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》田舍に許り居た所で詰らぬから、一度東京も見ようぢやないか。「若い時ア二度無い」といふ流行唄《はやりうた》の文句まで引いて、熱心にお定の決心を促すのであつた。
 で、其方法も別に面倒な事は無い。立つ前に密《こつそ》り衣服《きもの》などを取纒めて、幸ひ此村《こゝ》から盛岡の停車場に行つ
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