とも言へぬ羞かしさに急に動悸がして来て、ぴたりと柱に凭懸《よりかか》つた儘、顔を見せまいと俯いた。
すた/\と軽い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『何《どう》したの、新太郎さん?』と言つた声は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、恁《か》う言はれたので、私は思はず顔を上げると、藤野さんは、晴乎《ぱつちり》とした眼に柔かな光を湛へて、凝と私を瞶《みつ》めてゐた。私は直ぐ又|俯《うつむ》いて、下唇を噛締めたが、それでも歔欷《すすりなき》が洩れる。
藤野さんは暫く黙つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下で漸《やつ》と及第したもの。』と、弟にでも言ふ様に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と私の顔を覗き込む様にしたが、私は片頬を柱に擦りつけて、覗かれまいとしたので、又すた/\と行つて了つた。藤野さんは何学科も成績が可《よ》かつたのだけれど、三学期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。
其日の夕暮、父は店先でトン/\と桶の箍《たが》を篏《い》れてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄
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