議な位。夢中になつて其後から駈け出したが、医者の門より二三軒手前の私の家へ飛び込むと、突然《いきなり》仕事してゐた父の膝に突伏した儘、気を失つて了つたのださうな。

 藤野さんは、恁《か》うして死んだのである。
 も一つの追憶も、其頃の事、何方が先であつたか忘れたが、矢張夏の日の赫灼《かくしやく》たる午後の出来事と憶えてゐる。
 村から一里許りのK停車場に通ふ荷馬車が、日に二度も三度も、村端《むらはづれ》から真直に北に開いた国道を塵塗《ちりまみ》れの黒馬の蹄に埃を立てて往返りしてゐた。其日私共が五六人、其空荷馬車に乗せて貰つて、村端から三四町の、水車へ行く野川の土橋まで行つた。一行は皆腕白盛りの百姓子、中に脳天を照りつける日を怖れて大きい蕗の葉を帽子代りに頭に載せたのもあつた。
 土橋を渡ると、両側は若松の並木、其路傍の松蔭の夏草の中に、汚い服装《なり》をした一人の女乞食が俯臥《うつぶせ》に寝てゐて、傍には、生れて満一年と経たぬ赤児が、嗄れた声を絞つて泣きながら、草の中を這廻つてゐた。
 それを見ると、馬車曳の定老爺が馬を止めて、『怎しただ?』と声をかけた。私共は皆馬車から跳下りた。

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