の奴隸になつて了つて、氷の如く冷酷な心になつたからだと冷笑した。或は實に然《さ》うなのかも知れぬ。
 幾人の人を癒やし、幾人の人を殺した此寢臺の上、親み慣れた藥の香を吸うて、濤音《なみおと》遠き枕に、夢むともなく夢むるのは十幾年の昔である。ああ、藤野さん! 僅か八歳の年の半年餘の短い夢、無論戀とは言はぬ。言つたら人も笑はうし、自分でも悲しい。唯、木陰地《こさぢ》の濕氣《しめりけ》にも似て、日の目も知らぬ淋しき半生に、不圖天上の枝から落ちた一點の紅は其人である。紅と言へば、あゝ、かの八月の炎天の下、眞白き脛《はぎ》に流れた一筋の血! まざまざとそれを思出す毎に、何故といふ譯もなく私は又、かの夏草の中に倒れた女乞食を思出すのである。と、直ぐ又私は、行方知れぬ母の上に怖しい想像を移す。咯血の後、昏睡の前、言ふべからざる疲勞の夜の夢を、幾度となく繰返しては、今私の思出に上る生の母の顏が、もう眞の面影ではなくて、かの夏草の中から怨めし氣に私を見た、何處から來て何處へ行つたとも知れぬ、女乞食の顏と同じに見える樣になつたのである。病める冷たき胸を抱いて人生の淋しさ、孤獨の悲しさに遣瀬もない夕べ、切に
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