》事をしたのだから、たとひ豐吉が一番で私が二番でも、私より豐吉の方が惡い人だ。」といふ樣な事を考へてゐたのであつた。

 あはれ、其後の十幾年、私は村の小學校を最優等で卒へると、高島先生の厚い情によつて、盛岡市の高等小學校に學んだ。其處も首尾よく卒業して、縣立の師範學校に入つたが、其夏父は肺を病んで死んだ。間もなく、母は隣村の實家に歸つた。半年許りして、或事情の下に北海道に行つたとまで知つてゐるが、生きてゐるとも死んだとも、消息を受けた人もなければ、尋ねる的《あて》もない。
 私は二十歳の年に高等師範に進んで、六箇月前にそれを卒へた。卒業試驗の少し前から出初めた惡性の咳が、日ましに募つて來て、此鎌倉の病院生活を始めてからも、既に四箇月餘りを過ぎた。
 學窓の夕、病室の夜、言葉に文に友の情は沁み/″\と身に覺えた。然し私は、何故か多くの友の如く戀といふものを親しく味つた事がない。或友は、君は餘り内氣で、常に警戒をしすぎるからだと評した。或は然《さ》うかも知れぬ。或友は、朝から晩まで黄卷堆裡に沒頭して、全然社会に接せぬから機會がなかつたのだと言つた。或は然《さ》うかも知れぬ。又或友は、知識
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