は言葉をかけたが、返事はしないで長い袂の端を前齒で噛んでゐた。さうなると、私は性質としてもう何も言へなくなるので、自分まで妙に涙ぐまれる樣な氣がして來て、默つて大柄杓で水を汲んだが、桶を擔いで歩き出すと、『新太郎さん。』と呼止められた。
『何す?』
『好い物見せるから。』
『何だす?』
『これ。』と言つて、袂の中から丁寧に、美しい花簪を出して見せた。
『綺麗だなす。』
『…………。』
『買つたのすか?』
 藤野さんは頭を振る。
『貰つたのすか?』
『阿母さんから。』と低く言つて、二度許り歔欷《すゝり》あげた。
『富太郎さん(新家の長男)に苛責《いぢめ》められたのすか?』
『二人に。』
 私は何とか言つて慰めたかつたが、何とも言ひ樣がなくて、默つて顏を瞶《みつ》めてゐると、『これ上げようかな?』と言つて、花簪を弄《いぢく》つたが、『お前は男だから。』と後《うしろ》に隱す振《ふり》をするなり、涙に濡れた顏に美しく笑つて、バタバタと門の中へ駈けて行つて了つた。私は稚い心で、藤野さんが二人の從兄弟に苛責《いぢめ》られて泣いたので、阿母さんが簪を呉れて賺《すか》したのであらうと想像して、何といふ
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