二筋の血
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仄《ほの》かな
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|限《き》りだつたので、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「おうにょう+王」、第3水準1−47−62]弱《かよわ》い
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)淋しくて/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧氣に續いて、今になつては、皆、仄《ほの》かな哀感の霞を隔てゝ麗《うらゝ》かな子供芝居でも見る樣に懷かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に殘つてゐる事が二つある。
何方《どつち》が先で、何方が後《あと》だつたのか、明瞭《はつきり》とは思出し難い。が私は六歳で村の小學校に上つて、二年生から三年生に進む大試驗に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つは慥か二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出來事と憶《おぼ》えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。
今では文部省令が嚴《きび》しくて、學齡前の子供を入學させる樣な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舍の事でもあり、左程面倒な手續も要《い》らなかつた樣である。でも數へ年で僅か六歳の、然も私の樣に※[#「おうにょう+王」、第3水準1−47−62]弱《かよわ》い者の入學《はい》るのは、餘り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳年長の子供等が、五人も七人も一度に學校に上つて了つて、淋しくて/\耐《たま》らぬ所から、毎日の樣に好人物の父に強請《ねだ》つた爲なので、初めの間こそお前はまだ餘り小さいからと禁《と》めてゐたが根が惡い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日學校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友《みんな》と一緒に學校に行く事になつた。されば私の入學は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい學問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸《ぼろ/\》になつた孝經やら十八史略の端本やらを持つて、茶話ながら高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。
其頃父は三十五六、田舍には稀な程晩婚であつた所爲《せゐ》でもあらうか、私には兄も姉も、妹もなく唯一粒種、剛い言葉一つも懸けるられずに育つた爲めか、背丈《せい》だけは普通であつたけれども、ひよろ/\と痩せ細つてゐて、隨分近所の子供等と一緒に、裸足《はだし》で戸外の遊戯もやるにかゝはらず、怎《どう》したものか顏が蒼白《あを》く、駈競《かけくら》でも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。隨つて、さうして遊んでゐながらも、時として密《こつそ》り一人で家に歸る事もあつたが、學校に上つてからも其性癖が變らず、樂書をしたり、木柵を潜り抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言《むつつり》で黒板に書いた字を讀めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、俯《うつむ》いて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで學校に入れて貰つたに拘はらず、私は遂學科に興味を有《も》てなかつた。加之《しかのみならず》時には晝休に家へ歸つた儘、人知れず裏の物置に隱れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何時《いつ》か私の頭を撫でながら、此兒も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる樣になれば可《い》いと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。
私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計《くらし》が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。隨つて、年中變らぬ稗勝《ひえがち》の飯に粘氣《ねばりけ》がなく、時偶《ときたま》夜話に來る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能で焦《いぶ》つて、茶代りに出すといふ有樣であつたから、私なども、年中つぎだらけの布《ぬの》の股引を穿《は》いて、腰までしかない洗晒《あらひざら》しの筒袖《つゝそで》、同じ服裝《なり》の子供等と共に裸足《はだし》で歩く事は慣れたもので、頭髮《かみ》の延びた時は父が手づから剃《そ》つて呉れるのであつた。名は檜澤新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。
學校では、前にも言つた如く、些《ちつ》とも學科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許り
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