の級《クラス》のうち尻から二番で漸と及第した。惡い事には、私の家の兩隣の子供、一人は一級上の男で、一人は同じ級の女の兒であつたが、何方《どつち》も其時半紙何帖かを水引で結んだ御褒賞を貰つたので、私は流石に子供心にも情《なさけ》ない樣な氣がして、其授與式の日は、學校から歸ると、例《いつも》の樣に戸外《おもて》に出もせず、日が暮れるまで大きい圍爐裏《ゐろり》の隅に蹲《うづくま》つて、浮かぬ顏をして火箸許り弄《いぢ》つてゐたので、父は夕飯が濟んでから、黒い羊羹を二本買つて來て呉れて、お前は一番|稚《ちいさ》いのだからと言つて慰めて呉れた。
 それも翌日になれば、もう忘れて了つて、私は相變らず時々午後の課業を休み/\してゐたが、七歳の年が暮れての正月、第三學期の初めになつて、學校には少し珍らしい事が起つた。それは、佐藤藤野といふ、村では儔《くら》べる者の無い程美しい女の兒が、突然一年生に入つて來た事なので。
 百何人の生徒は皆目を聳《そばた》てた。實際藤野さんは、今想うても餘り類のない程美しい兒だつたので、前髮を眉の邊まで下げた顏が圓く、黒味勝の眼がパッチリと明るくて、色は飽迄白く、笑ふ毎に笑窪《えくぼ》が出來た。男生徒は言はずもの事、女生徒といつても、赤い布片《きれ》か何かで無雜作に髮を束《たば》ねた頭を、垢染《あかじ》みた浅黄《あさぎ》の手拭に包んで、雪でも降る日には、不恰好な雪沓《つまご》を穿いて、半分に截《き》つた赤毛布を頭からスッポリ被《かぶ》つて來る者の多い中に、大きく菊の花を染めた、派手な唐縮緬の衣服《きもの》を着た藤野さんの姿の交つたのは、村端《むらはづれ》の泥田に蓮華の花の咲いたよりも猶鮮やかに、私共の眼に映つたのであつた。
 藤野さんは、其以前《そのまへ》、村から十里とも隔たらぬ盛岡の市の學校にゐたといふ事で、近江屋の分家の、呉服屋をしてゐる新家といふ家に、阿母《おかあ》さんといふ人と二人で來てゐた。
 私共の耳にまで入つた村の噂では、藤野さんの阿母さんといふ人は、二三年も前から眼病を患《わづら》つてゐた新家の御新造の妹なさうで、盛岡でも可也《かなり》な金物屋だつたが、怎《どう》した破目かで破産して、夫といふ人が首を縊つて死んで了つた爲め、新家の家の家政を手傳ひ旁々、亡夫の忘れ形見の藤野さんを伴れて、世話になりに來たのだといふ事であつた。其阿母さんも亦、小柄な、色の白く美しい、姉なる新家の御新造にも似ず、いたつて快活な愛想の好い人であつた。
 村の學校は、其頃まだ見窄《みすぼ》らしい尋常科の單級で、外に補習科の生徒が六七人、先生も高島先生一人|限《き》りだつたので、教場も唯一つ。級は違つてゐても、鈴の樣な好い聲で藤野さんが讀本を讀む時は、百何人が皆石筆や筆を休ませて、其方《そつち》許り見たものだ。殊に私は、習字と算術の時間が厭《いや》で/\耐《たま》らぬ所から、よく呆然《ぼんやり》して藤野さんの方を見てゐたもので、其度先生は竹の鞭で私の頭を輕く叩いたものである。
 藤野さんは、何學科でも成績が可《よ》かつた。何日《いつ》であつたか、二年生の女生徒共が、何か授業中に惡戲《いたづら》をしたといつて、先生は藤野さんを例に引いて誡《いまし》められた事もあつた樣だ。上級の生徒は、少しそれに不服であつた。然し私は何も怪《あやし》まなかつた。何故なれば、藤野さんは其頃、學校中で、村中で、否、當時の私にとつての全世界で、一番美しい、善い人であつたのだから。
 其年の三月三十日は、例年の如く證書授與式、近江屋の旦那樣を初め、村長樣もお醫者樣も、其他村の人達が五六人學校に來られた。私も、祕藏の袖の長い衣服《きもの》を着せられ、半幅の白木綿を兵子帶にして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の白い覆布をかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた樣に憶《おぼ》えてゐる。勅語の捧讀やら「君が代」の合唱やらが濟んで、十何人かの卒業生が、交る交る呼出されて、皆嬉し相にして卒業證書を貰つて來る。其中の優等生は又、村長樣の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。軈て、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が讀上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周圍の子供等は皆私の顏を見た。私は其時|甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》氣持がしたつたか、今になつては思出せない。
 式が濟んでから、近江屋樣から下さるといふ紅白の餅だけは私も貰つた。皆は打伴れて勇まし相に家に歸つて行つたが、私共落第した者六七人だけは、用があるからと言つて先生に殘された。其中には村端
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