『おいおい。』さう言ひながら多吉は子供等の群に近づいて行つた。『お前達は善い先生を持つて幸福《しあはせ》だね。』
 子供等は互ひに目を見合つて返事を譲つた。前の方にゐたのは逃げるやうに皆の後へ廻つた。
『お前達は何を一番見たいと思つてる?』多吉はまた言つた。
 それにも返事はなかつた。
『何か見たいと思つてる物があるだらう?………誰も返事をしないのか? はははは。T――村の生徒は石地蔵みたいな奴ばかりだと言はれても可いか?』
 子供等は笑つた。
『物を言はれたら直ぐ返事をするもんだ、お前達の先生はさう教へないか? 此方《こつち》から何か言つて返事をしなかつたら、殴つても可い。先方《むかう》で殴つて来たら此方からも殴れ。もつとはきはきしなけあ可かん。』
『己《おら》あ軍艦見たい、先生。』
 道化た顔をしたのが後の方から言つた。
『軍艦? それから?』
『己あ蓄音機だなあ。』と他の一人が言ふ。
『ようし。軍艦に蓄音機か。それでは今度は直ぐ返事をするんだぞ。可いか?』
『はい。』と皆一度に言つた。
『お前達は汽車を見た事があるか?』
『有る。』『無い。』と子供等は口々に答へた。
『見た事があるけれども、乗つた事あ無い。』
 脊の高いのが皆の後《あと》から言つた。
『さあさあ皆《みんな》帰れ帰れ。』といふ大きな声が其の時多吉の後から聞えた。皆は玄関の方を見た。其処には此処の校長が両手を展げて敷居の上に立つてゐた。
『今井先生、さあ何卒。』また声を大きくして、『今日は学校にお客様があるのだから、お前達がゐて騒がしくてはならん。』
 多吉は笑ひながら踵を返して、休みの日にS――村へ遊びに来たら、汽車を見に連れてつてやると子供等に言つた。そして中へ入つて行つた。
 校庭のひつそりした頃に、腰の曲つた小使が草箒を持つて出て来て、玄関から掃除に取りかかつた。草鞋、靴、下駄、方々から集つた教師達の履物は丁寧に並べられた。皆で十七八足あつた。其の中に二足の女下駄の、一つは葡萄茶《えびちや》、一つは橄欖色《オリイブ》の緒の色が引き立つてゐた。
       *   *   *   *
     *   *   *   *
『此処でまた待つて居ますか?』
 多吉は後に跟《つ》いて[#「跟《つ》いて」は底本では「踉《つ》いて」]来る松子を振回《ふりかへ》つて言つた。
『ええ。少し寒くなつて来たやうですね。』
 多吉は無雑作に路傍の石に腰を掛けた。松子は少し離れて納戸色《おなんどいろ》の傘を杖に蹲《しやが》んだ。
 其処はもうS――村に近い最後の坂の頂《いただき》であつた。二人は幾度か斯うして休んでは、寄路をして遅れた老人《としより》達を待つた。待つても待つても来なかつた。さうして又歩くともなく歩き出して、遂々《たうたう》此処まで来てしまつた。
 日はもう午後五時に近かつた。光の海のやうに明るい雲なき西の空には、燃え落《おつ》る火の玉のやうな晩秋の太陽が、中央山脈の上に低く沈みかけてゐた。顫《ふる》へるやうな弱い光線が斜めに二人の横顔を照した。そして、周匝《あたり》の木々の葉裏にはもう夕暮の陰影《かげ》が宿つて見えた。
 行く時のそれは先方《むかう》にゐるうちに大方癒つてゐたので、二人はさほど疲れてゐなかつた。が、流石に斯うして休んでみると、多吉にも膝から下の充血してゐる事が感じられた。そして頭の中には話すべき何物もなくなつてゐるやうに軽かつた。
 授業の済んだ後、栗が出た、酒が出た、栗飯が出た。そして批評が始つた。然し其の批評は一向にはずまなかつた。それは一つは、思掛けない出来事の起つた為であつた。
『それでは徐々《そろそろ》皆さんの御意見を伺ひたいものであす。』さう主人役の校長が言出した時、いつもよく口を利く例になつてゐる頭の禿げた眇目《かため》の教師が、俄かに居ずまひを直して、八畳の一間にぎつしりと座り込んでゐる教師達を見廻した。
『批評の始る前に――と言つては今日の会を踏みつけるやうで誠に済まない訳ですが――実は一つ、私から折入つて皆さんの御意見を伺つて見たい事があるのですが………自分一個の事ですから何ですけれども、然し何うも私としては黙つてゐられないやうな事なので。』
 一同何を言ひ出すのかと片唾《かたづ》をのんだ。常から笑ふ事の少い眇目《かため》の教師の顔は、此の日殊更苦々しく見えた。そして語り出したのは次のやうな事であつた。――先月の末に郡役所から呼出されたので、何の用かと思つて行つて見ると、郡視学に別室へ連れ込まれて意外な事を言はれた。それは外でもない。自分が近頃………………………………………………といふ噂があるとかで、それを詰責されたのだ。――
『実に驚くではありませんか? 噂だけにしろ、何しろ私が先づ第一に、独身で斯うしてゐなさる山屋さんに済みません。それに私にしたところで、教育界に身を置いて彼是《かれこれ》三十年の間、自分の耳の聾だつたのかも知れないが、今迄つひぞ悪い噂一つ立てられた事がない積りです。自賛に過ぎぬかも知れないが、それは皆さんもお認め下さる事と思ひます。……実に不思議です。私は学校へ帰つて来てから、口惜《くや》しくつて口惜しくつて、男泣きに泣きました。』
 ………………………………………………………………………………………。
『………口にするも恥《は》づるやうなそんな噂を立てられるところを見ると、つまり私の教育家としての信任の無いのでせう。さう諦めるより外仕方がありません。然し何うも諦められません。――一体私には、何処かさういふ噂でも立てられるやうな落度があつたのでせうか?』
 一同顔を見合すばかりであつた。と、多吉はふいと立つて外へ出た。そして便所の中で体を揺《ゆすぶ》つて一人で笑つた。苦り切つた××の眇目《かため》な顔と其の話した事柄との不思議な取合せは、何うにも斯うにも可笑しくつて耐らなかつたのだ。「あの老人《としより》が男泣きに泣いたのか。」と思ふと、又しても新らしい笑ひが口に上つた。
 多吉の立つた後、一同また不思議さうに目を見合つた。すると誰よりも先に口を開いたのは雀部であつた。
『何うも驚きました。――然し何うも、郡視学も郡視学ではありませんか? ××さんにそんな莫迦な事のあらう筈のない事は、苟《いやし》くも瘋癲《ばか》か白痴《きちがひ》でない限り、何人《なにびと》の目も一致するところです。たとへそんな噂があつたにしろ、それを取上げて態々《わざわざ》呼び出すとは………』
『いや今日私のお伺ひしたいのは、そんな事ではありません。視学は視学です。………それよりも一体何うしてこんな噂が立つたのでせう?』と、語気が少し強かつた。
『誰か生徒の父兄の中にでも、何かの行違ひで貴方を恨んでる――といふやうなお心当りもありませんのですか?』
 仔細らしい顔をした一人の教師が、山羊のやうな顋《あご》の髯を撫でながらさう言つた。
『断じてありません。色々思出したり調べたりして見ましたけれども。』と強く頭を振つて××は言つた。「此の一座の中になくて何処にあらう?」といふやうな怒りが眼の中に光つた。或者は潜《ひそ》かに雀部の顔を見た。
 それも然し何《ど》うやら斯《か》うやら収りがついた。が、眇目《かため》の教師はそれなり余り口を利かなかつた。従つて肝腎の授業の批評は一向|栄《は》えなかつた。シとス、チとツなどの教師の発音の訛りを指摘したのや、授業中一学年の生徒を閑却した傾きがあつたといふ説が出たぐらゐで、座は何となく白けた。さうしてる処へ其の村の村長が来た。盃が俄かに動いて、話は全くの世間話に移つて行つた。
 三時になつて一同引上げる事になつた。門を出た時、半分以上は顔を赧《あか》くしてゐた。中にも足元の確《たし》かでない程に酔つたのは目賀田であつた。
 路の岐《わか》れる毎に人数《ひとかず》が減つた。とある路傍の屋根の新しい大きい農家の前に来た時、其処まで一緒に来た村長は、皆を誘つて其の家に入つて行つた。其処には村の誇りにしてある高価な村有|種馬《しゆば》が飼はれてあつた。
 家の主人《あるじ》は喜んで迎へた。そして皆が厩舎《うまや》を出て裏庭に廻つた時は、座敷の縁側に薄縁《うすべり》を布いて酒が持ち出された。それを断るは此処等の村の礼儀ではなかつた。
 多吉と松子は、稍あつてから一足先に其の家を出て来たのであつた。
 二人は暫くの間坂の頂《いただき》に推黙つてゐた。
『屹度酔つてらつしやるのでせうね?』
『ええ、さうでせう。真個《ほんと》に為様《しやう》がない。』
 と言つて、多吉は巻煙草に火を点けた。
 然し二人は、日の暮れかかる事に少しも心を急がせられなかつた。待つても待つても来ない老人《としより》達を何時までも待つてゐたいやうな心持であつた。
 稍あつて多吉は、
『僕も年老《としよ》つて飲酒家《さけのみ》になつたら、ああでせうか? 実に意地が汚ない。目賀田さんなんか盃より先に口の方を持つて行きますよ。』
『ええ。そんなに美味《おいし》いものでせうか?』
『さあ。………僕も一度うんと飲んだ事がありますがね。何だか変な味がするもんですよ。』
『何時《いつ》お上りになつたんです?』
『兄貴の婚礼の時。皆が飲めつて言ふから、何糞と思つてがぶがぶやつたんですよ。さうすると体が段々重くなつて来ましてねえ。莫迦に動悸が高くなるんです。これあ変だと思つて横になつてると、目の前で話してる人の言葉がずつと遠方からのやうに聞えましたよ。………それから終《しまひ》に、綺麗な衣服《きもの》を着た兄貴のお嫁さんが、何だか僕のお嫁さんのやうに思はれて来ましてねえ。僕はまだ嫁なんか貰ふ筈ぢやなかつたがと思つてるうちに、何時の間にか眠つちやつたんです。』
『面白いのね。お幾歳《いくつ》の時です?』
『十七の時。』
 多吉は腰掛けた石の冷気を感じて立ち上つた。そして今来た方を見渡したが、それらしい人影も見えなかつた。
『何うしたんでせう?』
『真個《ほんと》にねえ。………斯うしてると川の音が聞えますね。』
『川の音?』
 二人は耳を澄ました。
『聞えるでせう?』
『聞えませんよ。』
『聞えますよ。此の下に川があつたぢやありませんか?」
『さう言へば少し聞えるやうですね。………うむ、聞える。彼処《あすこ》まで行つて待つてることにしませうか?』
『さうですね。』
『実に詰らない役だ。』
『真個にね。私がゐなかつたら先へいらつしやるのでせう?』
『はは。』と多吉は高く笑つた。
 二人は坂を下つた。
 渓川の水は暮近い空を映して明《あかる》かつた。二人は其の上の橋の、危なげに丸太を結つた欄干に背を靠《もた》せて列んだ。其処からはもう学校まで十一二町しかなかつた。
『此処で待つて来なかつたら何うします?』
『私は何うでも可くつてよ。』
『それぢや先に帰る事にしますか?』
『帰つても可いけれども、何だか可笑《をかし》いぢやありませんか?』
『そんなら何時まででも待ちますか?』
『待つても可いけれど………』
『日が暮れても?』
『私何うでも可いわ。先生の可いやうに。』
『若しか待つてるうちに日が暮れて了つて、真暗になつたところへ、山賊でも出て来たら何うします?』
『厭ですわ、嚇《おど》かして。』
『其処等の藪ががさがさ鳴つて、豆絞りの手拭か何か頬冠りにした奴が、にゆつと出て来たら?』
『出たつて可いわ。先生がいらつしやるから。』
『僕は先に逃げて了《し》まひますよ。』
『私も逃げるわ。』
『逃げたつて敵《かな》ひませんよ。後から襟首をぐつと捉へて、生命欲しいか金欲しいかと言つたら何うします?』
『お金《わし》を遣るわ。一円ばかししか持つてないから。』
『それだけぢや足らないつて言つたら?』
『そしたら………そしたら、先に逃げた先生がどつさり持つてるから、あの方へ行つてお取りなさいつて言つてやるわ。ほほほ。』
『失敗《しま》つた。此の話はもつと暗くなつてからするんだつけ。』
『随分ね。………もう驚かないから可いわ。』
『真個《ほんと》ですか?』
『真
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