個。驚くもんですか。』
『それぢや若し………若しね、』
『何が出ても大丈夫よ。』
『若しね、………』
『ええ。』
『罷《や》めた。』
『あら、何故?』
『何故でも罷めましたよ。』
 多吉は真面目な顔になつた。
『あら、聞かして頂戴よう。ねえ、先生。』
「…………………………………………。」と多吉は思つた。そして、『罷めましたよ。貴方が喫驚《びつくり》するから。』
『大丈夫よ。何んな事でも。』
『真個ですか?』
 多吉は駄目を推すやうに言つた。
『ええ。』
『少し寒くなりましたね。』
 松子は男の顔を見た。もう日が何時しか沈んだと見えて、周匝《あたり》がぼうつとして来た。渓川の水にも色が無かつた。
 松子は、と、くつくつと一人で笑ひ出した。笑つても笑つても罷《や》めなかつた。終には多吉も為方なしに一緒になつて笑つた。
『何がそんなに可笑いんです?』
『何でもないこと。』
『厭ですよ。僕が莫迦にされてるやうぢやありませんか?』
『あら、さうぢやないのよ。』
 松子は漸々《やうやう》笑ひを引込ませた。
「女には皆――の性質があるといふが、真個か知ら。」と不図多吉は思つた。そして言つた。『女にも色々ありますね。先《せん》のお婆さんは却々《なかなか》笑はない人でしたよ。』
『先のお婆さんとは?』
『貴方の前の女先生ですよ。』
『まあ、可哀相に。まだ二十五だつたつてぢやありませんか?』
『独身の二十五ならお婆さんぢやありませんか?』
『独身だつて………。そんなら女は皆結婚しなければならないものでせうか?』
『二十五でお婆さんと言はれたくなければね。』
『随分ね、先生は。』
『さうぢやありませんか?』
『先の方とは、先生はお親しくなすつたでせうね?』
『始終《しよつちゆう》怒られてゐたんですよ。』
『嘘ばつかし。大層真面目な方だつたさうですね?』
『ええ。時々僕が飛んでもない事を言つたり、子供らしい真似をして見せるもんだから、其の度怒られましたよ。それが又面白いもんですからね。』
『………飛んでもない事つて何んな事を仰しやつたんです?』
『女は皆――の性質を持つてるつて真個《ほんと》ですかつと言つたら、貴方とはこれから口を利かないつて言はれましたよ。』
『まあ、随分|酷《ひど》いわ。………誰だつて怒るぢやありませんか、そんな事を言はれたら。』
『さうですかね。』
『怒るぢやありませんか? 私だつて怒るわ。』
 すると今度は多吉の方が可笑《をか》しくなつた。笑ひを耐《こら》へて、
『今怒つて御覧なさい。』
『知りません。』
『あははは。』多吉は遂に吹出した。そしてすつかり敵を侮つて了つたやうな心持になつた。
『矢沢さん。先刻僕が何を言ひかけて罷めたか知つてますか?』
『仰しやらなかつたから解らないぢやありませんか?』
『僕が貴方を――――ようとしたら、何うしますつて、言ふ積りだつたんです。あははは。』
『可いわ、そんな事言つて。………真個《ほんと》は私も多分さうだらうと思つたの。だから可笑しかつたわ。』
 其の笑ひ声を聞くと多吉は何か的《あて》が脱《はづ》れたやうに思つた。そして女を見た。
 周匝《あたり》はもう薄暗かつた。
『まあ、何うしませう、先生? こんなに暗くなつちやつた。』と、暫らくあつて松子は俄かに気が急《せ》き出したやうに言つた。
 多吉には、然し、そんな事は何うでもよかつた。――――ものが、急に解らないものになつたやうな心持であつた。
『可いぢやありませんか? これから真個に嚇《おど》して、貴方に本音を吐かして見せる。』
『厭私、嚇《おどか》すのは。』
『厭なら一人お帰りなさい。』
『ねえ、何うしませう? あれ、あんなにお星様が見えるやうになつたぢやありませんか。』
『そんなに狼狽《うろた》へなくても可いぢやありませんか、急に?』
『ええ。………ですけれども、何だか変ぢやありませんか?………………………………………………………………………。』
『ははは。………あれあ滑稽でしたね。』………………………………………………………………………。
『あの老人《としより》が…………………………………………と思ふと、僕は耐らなくなつたから便所へ逃げたんですよ。』
『ええ。先生がお立ちになつたら、皆変な顔をしましたわ。』
『だつて可笑いぢやありませんか。あの女の人も一緒になつて憤慨するんだと、まだ面白かつた。』
『可哀相よ、あの方は。………………………………………………………………………………………。………真個《ほんと》に私あのお話を聞いてゐて、恐《こは》くなつたことよ。』
『何が?』
『だつてさうぢやありませんか?……………………………………………………………………………………。あの方のは噂だけかも知れないけれども、噂を立てられるだけでも厭ぢやありませんか?』
『僕は唯|可笑《をかし》かつた。口惜しくつて男泣きに泣いたなんか振《ふる》つてるぢやありませんか?』
『一体あれは真個《ほんと》でせうか? 誰か中傷したんでせうか?』
『さあ。貴方は何と思ひます?』
『解らないわ。………。』
『我田引水ですね。』
『ぢやないのよ。ですけれども、何だかそんな気がするわ。』
『男の方では…………………………………?』
『ええ。まあそんな………。そしてあの山屋さんて方、屹度私、意志の弱い方だと思ふわ。』
『さうかも知れませんね。………』
『ですけれど、誰でせう、視学に密告したのは?』
『それあ解つてますよ。――老人《としより》達があんな子供らしい悪戯《いたづら》をするなんて、可笑いぢやありませんか?』
『真個だわ。………私達の知つてる人でせうか?』
『知れてるぢやありませんか?』
『雀部先生ね。屹度さうだわ。――大きい声では言はれないけれども。』
『あ、お待ちなさい。』
 と言つて多吉は聞耳を立てた。
 渓川の水がさらさらと鳴つた。
『声がしたんですか?』
『黙つて。』
 二人は坂を見上げた。空は僅かに夕照《ゆふばえ》の名残をとどめてゐるだけで、光の淡《うす》い星影が三つ四つ数へられた。
『あら、変だわ。声のするのは彼方《あつち》ぢやありませんか?』と、稍あつて松子は川下の方を指した。
『さうですね。……変ですね。』
『若しか外の人だつたら、私達が此処に斯《か》うしてるのが可笑いぢやありませんか?』
『ああ、あれは雀部さんの声だ。さうでせう? さうですよ。』
『ええ、さうですね。何うして彼方《あつち》から……』
 多吉は両手で口の周囲《まはり》を包むやうにして呼んだ。『先生い。何処を歩いてるんでせう?』
『おう。』と間《ま》をおいて返事が聞えた。確かに川下の方からであつた。
 間もなく夕暗《ゆふやみ》の川縁に三人の姿が朧気《おぼろげ》に浮び出した。
『何うしてそんな方から来たんです?』
『今井さん一人ですか?』
『矢沢さんもゐます。余り遅いから今もう先に帰つて了はうかと思つてゐたところでした。』
『いや、済みませんでした。』
『何《ど》うしてそんな方から来たんです? 其方には路がなかつたぢやありませんか?』
『いや、失敗失敗。』
 それは雀部が言つた。
『狐にでも魅《つま》まれたんですか?』
『今井さん、穏《おとな》しく貴方《あんた》と一緒に先に来れば可かつた。』へとへとに疲れたやうな目賀田の声がした。
『いやもう、狐なら可いが、雀部さんに魅《つま》まれてさ。』
『それはもう言ひつこなし。降参だ、降参だ。』と雀部がいふ。
 其の内に三人とも橋の上に来た。
『ああ疲れた。』校長は欄干に片足を載せて腰かけた。『矢沢さん、どうも済みませんでした。』
『いいえ。何うなすつたのかと思つて。』
『真個に済みませんでしたなあ。』と雀部は言つた。『多分もう学校へ帰つてオルガンでも弾いてらつしやるかと思つた。』
『今井さん、まあ聞いて下さい。』目賀田老人は腰を延ばしながら訴へるやうな声を出した。『………彼処《あすこ》で、止せば可いのに可加減《いいかげん》飲んでね。雀部さん達はまだ俺《わし》より若いから可いが、俺はこれ此の通りさ。そしたら雀部さんが、近路があるから其方を行つて、貴方方に追付かうぢやないかと言ふんだものな。賛成したのは俺も悪いが、それはそれは酷い坂でね。剰《おまけ》に辛《やつ》と此の川下へ出たら、何うだえ貴方《あんた》、此間《こなひだ》の洪水《みづまし》に流れたと見えて橋が無いといふ騒ぎぢやないか。それからまた半里《はんみち》も斯うして上つて来た。いやもう、これからもう雀部さんと一緒には歩かない。』
『ははは。』と多吉は笑つた。
『然しまあ可かつた。彼処に橋が有つたら、危くお二人を此処に置去りにするところでしたよ。』
『私はもう黙つてる。何うも四方八方へ私が済まない事になつた。』と雀部は笑ひながら頭を掻いた。
『ところで、何方《どなた》か紙を持つてませんかな? 俺は今まで耐《こら》へて来たが………一寸皆さんに待つて貰つて。』
 紙は松子の袂から出た。
『少し臭いかも知れないから、も少し先へ行つて休んでて下さい。今井さん、これ頼みます。』
 さう言つて目賀田は蝙蝠傘《かうもりがさ》を多吉に渡し、痛い物でも踏むやうな腰付をして、二三間離れた橋の袂の藪陰に蹲《つくば》つた。禿げた頭だけが薄《うつ》すりと見えた。
『置去りにしますよ、目賀田さん。』
 さう雀部は揶揄《からか》つた。然し返事はなかつた。
 四人は橋を渡つた。そして五六間来ると其処等の山から切出す花崗石《みかげいし》の石材が路傍に五つ六つ転《ころが》してあつた。四人はそれぞれ其上に腰掛けた。
『ああ疲れた。』
 校長はまた言つた。
『真個に疲れましたなあ。』と雀部も言つた。
『斯う疲れると、もう何も彼も要らない。………彼処の家でも皆で二升位飲んだでせうね?』
『一升五合位なもんでせう。皆下地のあつたところへ酒が悪かつたから、一層《いつそ》利いたのですよ。』
『此処へもう、寝て了ひたくなつた。』
 校長は薄暗い中で体をふらふらさしてゐた。
『目賀田さんは随分弱つたやうですね。』と多吉が言つた。
『いや真個に気の毒でした。彼処の橋のない処へ来たら、子供みたいにぶつぶつ言つて歩かないんだもの。』
『あの態《ふう》ぢや何《ど》うせ学校へ泊るんでせうね?』
『兎《と》ても帰れとは言はれません。』校長が言つた。『一体お老人《としより》は、今日のやうな遠方の会へは出なくても可ささうなもんですがねえ。』
『校長さん、さうは言ひなさるな。誰が貴方、好き好んで出て来るもんですか? 高い声では言はれないが、目賀田さんは私あ可哀相だ。――老朽の准訓導でさ。何時《なんどき》罷《や》めさせられるかも知れない身になつたら………』
『それはさうです。全くさうです。』
『それを今の郡視学の奴は、あれあ莫迦ですよ。何処の世に、父親《おやぢ》のやうな老人《としより》を捉へてからに何だの彼《か》だの――あれあ余程莫迦な奴ですよ。莫迦でなけれあ人非人だ。』
 酒気の名残があつた。
『解りました。』と、舌たるい声で校長が言つた。
 話が切れた。
 待つても待つても目賀田は来なかつた。遂々《たうたう》雀部は大きな※[#「口+去」、第3水準1−14−91]呻《あくび》をした。
『ああ眠くなつた。目賀田さんは何うしたらうなあ。まさかあの儘寝て了つたのぢやないだらうか。』
『今来るでせう。ああ、小使が風炉《ふろ》を沸かしておけば可いがなあ。』
 さう言ふ校長の声も半分は※[#「口+去」、第3水準1−14−91]呻《あくび》であつた。
 水の音だけがさらさらと聞えた。
「己はまだ二十二だ。――さうだ、たつた二十二なのだ。」多吉は何の事ともつかずに、さう心の中に思つて見た。
 そして巻煙草に火を点けて、濃くなりまさる暗《やみ》の中にぽかりぽかりと光らし初めた。
 松子はそれを、隣りの石から凝《じつ》と目を据ゑて見つめてゐた。
[#地から1字上げ]〔「新小説」明治四十三年四月号〕



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978
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