あのお芳茶屋の娘の何とかいふ子な、去年か一昨年《をととし》まで此方《こちら》の生徒だつた。――あれが貴方、むつちりした手つ手で、「はい、先生様。」と言つて渡して呉れたのを、俺はちやんと知つてる。それからそれを受取つて冠つたのも知つてますものな。――ところがさ、家《うち》へ帰ると突然《いきなり》老妻《ばばあ》の奴が、「まあ、そんなに酔つ払つて、……帽子《シヤツポ》は何うしたのです?」と言ふんでな。はてな、と思つて、斯《か》うやつて見ると、それ。――』
 手を頭へやつて、ぴたりと叩いて見せた。『はははは。』多吉はそれを機《しほ》に椅子を離れた。
『浮気だものな、此のお老人《としより》は。』さう言つて雀部ももう此の話の尻を結んだ積りであつた。
『莫迦な。』目賀田はそれを追駆《おつか》けるやうに又手を挙げた。『貴方《あんた》ぢやあるまいし。……若しや袂に入れたかと思つて袂を探したが、袂にもない。――』
『出懸けませうか、徐々《そろそろ》。』
 手持無沙汰に立つてゐた校長がさう言つた。『さうですね。』と雀部も立つ。
『もう時間でせうな。』後を振向いてさう言つた目賀田の顔は、愈々諦めねばならぬ時が
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