せうな?』
『さあ、何年から。……自分から言つては可笑《をか》しいが、買つた時は――新しい時は見事でしたよ。汽船《ふね》で死んだ伜が横浜から土産に買つて来て呉れたのでな。羅紗《ラシヤ》は良し――それ、島内といふ郡長がありましたな。あの郡長が巡回に来て、大雨で一晩泊つて行つた時、手に取つてひつくら返しひつくら返し見て褒めて行つた事がありました哩。――外の事は何にも褒めずにあの帽子だけをな。』
『何うして遺失《おと》したんです?』と多吉は真面目な顔をして訊いた。
『それがさ。』老人は急に悄気《しよげ》た顔付をして若い教師を見た。それから其の眼を雀部の髯面に移した。
『先月、それ、郡視学が巡《まは》つて来ましたな?』
『はあ、来ました。』
『あの時さ。』と目賀田は少し調子づいた。『考へて見れば好い面《つら》の皮さな。老妻《ばばあ》を虐めて※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を殺《しめ》さしたり、罎詰の正宗を買はしたり、剰《おまけ》にうんと油を絞られて、お帰りは停車場まで一里の路をお送りだ。――それも為方《しかた》がありませんさ。――ところで汽車が発つと何うにも胸が収まらない。例《いつも
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