も見えた。
『蝙蝠傘を翳《さ》してるのになあ、貴方《あんた》、それだのに此の禿頭から始終《しよつちゆう》雫が落ちてくるのですものなあ。』
 こんな事を言つて、後頭《うしろ》にだけ少し髪《け》の残つてゐる滑かな頭をつるりと撫でて見せた。皆《みんな》は笑つた。笑ひながら多吉は、此の老人にもう其の話を結末《おしまひ》にせねばならぬ暗示を与へる事を気の毒に思つた。それと同時に、何がなしに此の老人が、頭の二つや三つ擲つてやつても可《い》い程|卑《さも》しい人間のやうに思はれて来た。
 校長にも同じやうな心があつた。老人の後《うしろ》に立つてゐて、お付合のやうに笑ひながら窓側《まどぎは》の柱に懸つてゐる時計を眺め、更に大形の懐中時計を衣嚢《かくし》から出して見た。
 雀部は漸く笑ひ止んで、揶揄《からか》ふやうな口を利いた。
『あの帽子は何うしたのです? 冠つて来なかつたのですか?』
『あれですか? あれはな、』目賀田は何の為ともなく女教師の顔を盗むやうに見た。『はははは、遺失《おと》して了ひました哩《わい》。』
『ほう。惜い事をしたなあ。却々《なかなか》好い帽子だつたが……。もう三十年近く冠つたで
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