を脱ぎながら校長が言つた。
「何が恰度だらう。」と、多吉はまた心の中に可笑くなつた。「誰も何とも定《き》めはしないのに。」
『そんなら私、帰途《かへり》には早く歩いてお目にかけますわ。』
 松子は鼻の先に皺を寄せて、甘へるやうに言つた。
 それから半時間ばかり経《た》つと、始業の鐘が嗄《かす》れたやうな音《ね》を立てて一しきり騒がしく鳴り響いた。多くは裸足《はだし》の儘で各《おの》がじし校庭に遊び戯れてゐた百近い生徒は、その足を拭きも洗ひもせず、吸ひ込まれるやうに暗い屋根の下へ入つて行つた。がたがたと机や腰掛の鳴る音。それが鎮まると教師が児童出席簿を読上げる声。――『淵沢長之助、木下勘次、木下佐五郎、四戸佐太《しのへさた》、佐々木|申松《さるまつ》………。』
『はい、はい………』と生徒のそれに答へる声。
 愈々《いよいよ》批評科目の授業が始つた。『これ前の修身の時間には、皆さんは何を習ひましたか。何といふ人の何をしたお話を聞きましたか。誰か知つてゐる人は有りましえんか。あん? お梅さん? さうであした。お梅さんといふ人の親孝行のお話であした。誰か二年生の中で、今其のお話の出来る人が有り
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