日初めて聞いたものではなかつた。然し彼は、汽車に近い村と汽車に遠い村との文化の相違を、今漸く知つたやうな心持であつた。地図の上では細い筆の軸にも隠れて了ふ程の二つの村にもさうした相違のあるといふ事は、若い准訓導の心に、何か知ら大きい責任のやうな重みを加へた。
それから彼此《かれこれ》一里の余も歩くと、山と山とが少し離れた。其処は七八|町歩《ちやうぶ》の不規則な形をした田になつてゐて、刈り取つた早稲の仕末をしてゐる農夫の姿が、機関仕掛《からくりじかけ》の案山子《かかし》のやうに彼方此方《あちこち》に動いてゐた。田の奥は山が又迫つて、二三十の屋根が重り合つて見えた。
馬の足跡の多い畝路《あぜみち》を歩き尽して、其の部落に足を踏み入れた時、多吉も松子もそれと聞かずにもう学校の程近い事を知つた。物言はぬ人のみ住んでゐるかとばかり森閑としてゐる秋の真昼の山村の空気を揺がして、其処には音とも声ともつかぬ、遠いとも近いとも判り難い、一種の底深い騒擾《どよめき》の響が、忘れてゐた自分の心の声のやうな親みを以て、学校教師の耳に聞えて来た。
何となく改まつたやうな心持があつた。草に埋《うづも》れた溝
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