前に、まだ何か成らなければならんものがありますよ。――ああ、此方《こつち》を見てる。』俄《には》かに大きい声を出して、『先生。少し待つて下さい。』
 半町ばかり下に三人が立留つて、一様に上を見上げた。
『何うです、あの帽子に花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した態《さま》は?』多吉は少し足を早めながら言ひ出した。『脚の折れた歪んだピアノが好い音を出すのを、死にかかつたお婆さんが恋の歌を歌ふやうだと何かに書いてあつたが、少々似てるぢやありませんか? 貴方が僕の小便するのを待つてゐたよりは余程《よつぽど》滑稽ですね。』
『随分ね。私は何をなさるのかと思つてゐただけぢやありませんか?』
『いや失敬。戯談ですよ。貴方と校長と比べるのは酷でした。』
『もうお止しなさいよ。校長が聞いたら怒るでせうね?』
『あの人は一体ああいふ真似が好きなんですよ。それ、此間《こなひだ》も感情教育が何《ど》うだとか斯《か》うだとか言つてゐたでせう?』
『ええ。あの時は私|可笑《をかし》くなつて――』
『真個《ほんと》ですよ。――優美な感情は好かつた。――あんな事をいふつての
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