た。雀部は其の教師を常から名を言はずに「あの眇目《かため》さん」と呼んでゐた。意地悪な眇目《かため》の教師と飲酒家《さけのみ》の雀部とは、少《ちひさ》い時からの競争者で、今でも仲が好くなかつた。
 多吉と松子は殿《しんがり》になつた。
 とある芝山の頂に来た時、多吉は路傍《みちばた》に立留つた。そして、
『少し先に歩いて下さい。』と言つた。
『何故です?』
『何故でも。』
 其の意味を解しかねたやうに、松子はそれでも歩かなかつた。
 すると多吉は突然《いきなり》今来た方へ四五間下つて行つた。そして横に逸《そ》れて大きい岩の蔭に体を隠した。岩の上から帽子だけ見えた。松子は初めて気が付いて、一人で可笑《をかし》くなつた。
 間もなく多吉は其処から引き返して来て、松子の立つてゐるのを見ると、笑ひながら近づいた。
『何うも済みません。』
『私はまた、何うなすつたのかと思つて。』
 二人は笑ひながら歩き出した。と、多吉は後を向いて、
『斯《か》うして二人歩いてる方が可《い》いぢやありませんか?』
 そして返事も待たずに、
『少し遅く歩かうぢやありませんか。………何《ど》うです、あの格好は?』
 
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