》よりは少し小《こ》つ酷《ぴど》く譴《や》られたのでな。――俺《わし》のやうな耄碌《まうろく》を捕まへてからに、ヘルバロトが何うの、ペスタ何とかが何うの、何段教授法だ児童心理学だと言つたところで何うなるつてな。いろはのい[#「い」に白丸傍点]は何う教へたつていろはのい[#「い」に白丸傍点]さ。さうでせう、雀部さん? 一二《いんに》が二は昔から一二が二だもの。………』
女教師は慌《あわて》て首を縮《すく》めて、手巾《ハンケチ》で口を抑へた。
『まあさ、さう笑ふものではない。老人《としより》の愚痴は老人の愚痴として聞くものですぞ。――いや、先生方の前でこんな事を言つちや済まないが、――まま、そ言つたやうな訳でね、停車場から出ると突然《いきなり》お芳茶屋へ飛込んだものさ。ははは。』
『解つた、解つた。そして酔つて了つて、誰かに持つて行かれたかな?』と雀部は煙草入を衣嚢《かくし》に蔵ひながら笑つた。
『いやいや。』目賀田は骨ばつた手を挙げて周章《うろた》へて打消した。『誰が貴方、犬ででもなけれあ、あんな古帽子《ふるシヤツポ》を持つて行くもんですかい。冠つて出るには確に冠つて出ましたよ。それ、あのお芳茶屋の娘の何とかいふ子な、去年か一昨年《をととし》まで此方《こちら》の生徒だつた。――あれが貴方、むつちりした手つ手で、「はい、先生様。」と言つて渡して呉れたのを、俺はちやんと知つてる。それからそれを受取つて冠つたのも知つてますものな。――ところがさ、家《うち》へ帰ると突然《いきなり》老妻《ばばあ》の奴が、「まあ、そんなに酔つ払つて、……帽子《シヤツポ》は何うしたのです?」と言ふんでな。はてな、と思つて、斯《か》うやつて見ると、それ。――』
手を頭へやつて、ぴたりと叩いて見せた。『はははは。』多吉はそれを機《しほ》に椅子を離れた。
『浮気だものな、此のお老人《としより》は。』さう言つて雀部ももう此の話の尻を結んだ積りであつた。
『莫迦な。』目賀田はそれを追駆《おつか》けるやうに又手を挙げた。『貴方《あんた》ぢやあるまいし。……若しや袂に入れたかと思つて袂を探したが、袂にもない。――』
『出懸けませうか、徐々《そろそろ》。』
手持無沙汰に立つてゐた校長がさう言つた。『さうですね。』と雀部も立つ。
『もう時間でせうな。』後を振向いてさう言つた目賀田の顔は、愈々諦めねばならぬ時が来たと言つてるやうに多吉には見えた。老人はこそこそと遁《に》げるやうに火鉢の傍から離れて、隅の方へ行つた。
校長は蔵《しま》つた懐中時計をまた出して見て、『恰度七時半です。――恰度可いでせう。授業は十一時からですから。』
『目賀田さんは御苦労ですなあ。』両手を衣嚢《かくし》に入れてがつしりした肩を怒らせながら、雀部は同情のある口を利いた。
『年は老《と》るまいものさな。………何有《なあに》………然し五里や十里は………まだまだ………』
断々《きれぎれ》に言ひながら、体を揺《ゆす》り上げるやうにして裾を端折つてゐる。
そして今度は羽織に袖を通しかけて、
『時にな、校長さん。』と言ひ出して。『俺《わし》の処の六角時計ですな、あれが何うも時々針が止つて為様《しやう》がないのですが、役場に持つて来たら直して貰へるでせうな?』
話の続きは玄関で取交された。
臨時の休みに校庭はひつそりとして広く見えた。隅の方に四五人集つて何かしてゐた近処の子供等は、驚いたやうに頭を下げて、五人の教師の後姿を見送つた。教師達の出て行つた後からは、毛色の悪い一群《ひとむれ》の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が餌《ゑ》をあさりながら校庭へ入つて行つて。
霧はもう名残もなく霽《は》れて、澄みに澄んだ秋の山村《さんそん》の空には、物を温めるやうな朝日影が斜めに流れ渡つてゐた。村は朝とも昼ともつかぬやうに唯物静かであつた。
水銀のやうな空気が歩みに随つて顔や手に当り、涼気《つめたさ》が水薬《すゐやく》のやうに体中《からだぢゆう》に染みた。「頭脳《あたま》が透き通るやうだ。」と多吉は思つた。暫らくは誰も口を利かなかつた。
村端れへ出ると、殿《しんがり》になつて歩いて来た校長は、
『今井さん。今日は不思議な日ですな。』と呼びかけた。
『何うしてです?』
『靴を穿いた人が二人に靴でない人が三人、髭のある人が二人に髭のない人が三人、皆二と三の関係です。』
『さうですね。』多吉は物を捜すやうに皆を見廻した。そして何か見付けたやうに、俄《には》かに高く笑ひ出した。
『さう言へばさうですな。』と背の高い雀部も振回《ふりかへ》つた。『和服が三人に洋服が二人、飲酒家《さけのみ》が二人に飲まずが三人。ははは。』
『飲酒家《さけのみ》の二人は誰と誰ですい?』目賀田は不服さうな口を利いた。
『貴方と私さ。
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