』
『俺《わし》もかな?――』
後の言葉は待つても出なかつた。
雀部は元気な笑ひ方をした。が、其の笑ひを中途で罷めて、遺失物《おとしもの》でもしたやうに体を屈《こご》めた。見ると衣嚢《かくし》から反古紙《ほごがみ》を出して、朝日に融けかけた路傍の草の葉の霜に濡れた靴の先を拭いてゐた。
拭きながら、『ははは。』と笑ひの続きを笑つた。『目賀田さんは飲酒家《さけのみ》でない積りと見える。』
多吉は吹出したくなつた。月給十三日分で買つた靴だと何日か雀部の誇つた顔を思出したのである。雀部の月給は十四円であつた。多吉は心の中で、「靴を大事にする人が一人………」と数へた。
『蝙蝠傘も目賀田さんと矢沢さんの二人でせう。皆二と三の関係です。』校長はまた言つた。
『それからまだ有りますよ。』多吉は穏《おとな》しく言つた。
『老人《としより》が三人で若い者が二人。』
『私も三人のうちですか?』
『可けませんか?』
多吉は揶揄《からか》ふやうな眼付をした。三十五六の、齢の割に頬の削《こ》けて血色の悪い顔、口の周匝《まはり》を囲むやうに下向きになつた薄い髭、濁つた力の無い眼光《まなざし》――「戯談《じやうだん》ぢやない。これでも若い気か知ら。」さういふ思ひは真面目であつた。
『貴方は髭が有るから為方《しかた》がないですよ。』
松子は吹出して了つた。
『校長さん、校長さん。』雀部は靴を拭いて了つて歩き出した。『矢沢さんは一人で、あとは皆男ですよ。これは何うします?』
『さうですな。』
『………………………………………………………………………………………』
『これだけは別問題です。さうして置きませう。』
雀部は燥《はしや》ぎ出した。『私が女に生れて、矢沢さんと手を取つて歩けば可《よ》かつたなあ。ねえ、矢沢さん。さうしたら――』
『貴方が女だつたら、…………………………』四五間先にゐた目賀田が振回《ふりかへ》つた。『……飲酒家《さけのみ》の背高の赤髯へ、…………………………』
言ひ方が如何にも憎さ気であつたので、校長は腹を抱《かか》へて了つた。松子もしまひには赧《あか》くなる程笑つた。
程なく土の黒い里道《りだう》が往還を離れて山の裾に添うた。右側の田はやがて畑になり、それが段々幅狭くなつて行くと、岸の高い渓川に朽ちかかつた橋が架つてゐた。
橋を渡ると山であつた。
高くもない雑木山芝山が、逶《うね》り※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《くね》つた路に縫はれてゐた。然し松子の足を困らせる程には峻しくもなかつた。足音に驚いて、幾羽の雉子が時々藪蔭から飛び立つた。けたたましい羽音は其の度何の反響もなく頭の上に消えた。
雑木の葉は皆|触《さは》れば折れさうに剛《こはば》つて、濃く淡く色づいてゐた。風の無い日であつた。
芝地の草の色ももう黄であつた。処々に脊を出してゐる黒い岩の辺《ほとり》などには、誰も名を知らぬ白い小い花が草の中に見え隠れしてゐた。霜に襲はれた山の気がほかほかする日光の底に冷たく感じられた。校長は、何と思つたか、態々《わざわざ》それ等の花を摘み取つて、帽子の縁に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して歩いた。
目賀田は色の褪せた繻子《しゆす》の蝙蝠傘を杖にして、始終皆の先に立つた。物言へば疲れるとでも思つてゐるやうに言葉は少かつた。校長と雀部が前になり後になりして其の背後《うしろ》に跟《つ》いた。二人の話題は、何日《いつ》も授業批評会の時に最も多く口を利く××といふ教師の噂であつた。雀部は其の教師を常から名を言はずに「あの眇目《かため》さん」と呼んでゐた。意地悪な眇目《かため》の教師と飲酒家《さけのみ》の雀部とは、少《ちひさ》い時からの競争者で、今でも仲が好くなかつた。
多吉と松子は殿《しんがり》になつた。
とある芝山の頂に来た時、多吉は路傍《みちばた》に立留つた。そして、
『少し先に歩いて下さい。』と言つた。
『何故です?』
『何故でも。』
其の意味を解しかねたやうに、松子はそれでも歩かなかつた。
すると多吉は突然《いきなり》今来た方へ四五間下つて行つた。そして横に逸《そ》れて大きい岩の蔭に体を隠した。岩の上から帽子だけ見えた。松子は初めて気が付いて、一人で可笑《をかし》くなつた。
間もなく多吉は其処から引き返して来て、松子の立つてゐるのを見ると、笑ひながら近づいた。
『何うも済みません。』
『私はまた、何うなすつたのかと思つて。』
二人は笑ひながら歩き出した。と、多吉は後を向いて、
『斯《か》うして二人歩いてる方が可《い》いぢやありませんか?』
そして返事も待たずに、
『少し遅く歩かうぢやありませんか。………何《ど》うです、あの格好は?』
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