多吉は坂下の方を指した。
『ええ。』松子は安心したやうな眼付をした。『目賀田先生はああして先になつてますけれども、帰途《かへり》には屹度《きつと》一番後になりますよ。』
『其の時は二人で手を引いてやりますか?』
『厭ですよ、私は。』
『止せば可《い》いのに下駄なんか穿いて、なんて言はれないやうだと可いですがね。』
『あら、私は大丈夫よ。屹度歩いてお目にかけますわ。』
『尤も、老人《としより》が先にまゐつて了ふのは順序ですね。御覧なさい。ああして年の順でてくてく坂を下りて行きますよ。ははは。面白いぢや有りませんか?』
『ええ。先生は随分お口が悪いのね。』
『だつて、面白いぢやありませんか? あつ、躓《つまづ》いた。御覧なさい、あの目賀田|爺《ぢい》さんの格好。』
『ほほほほ。………ですけれど、私達だつて矢張坂を下りるぢやありませんか?』
『貴方もお婆さんになるつて意味ですか?』
『まあ厭。』
『厭でも応でもさうぢやありませんか?』
『そんなら、貴方だつて同じぢやありませんか?』
『僕は厭だ。』
『厭でも応でも。ほほほほ。』
『人が悪いなあ。――然し考へて御覧なさい。僕なんかお爺さんになる前に、まだ何か成らなければならんものがありますよ。――ああ、此方《こつち》を見てる。』俄《には》かに大きい声を出して、『先生。少し待つて下さい。』
半町ばかり下に三人が立留つて、一様に上を見上げた。
『何うです、あの帽子に花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した態《さま》は?』多吉は少し足を早めながら言ひ出した。『脚の折れた歪んだピアノが好い音を出すのを、死にかかつたお婆さんが恋の歌を歌ふやうだと何かに書いてあつたが、少々似てるぢやありませんか? 貴方が僕の小便するのを待つてゐたよりは余程《よつぽど》滑稽ですね。』
『随分ね。私は何をなさるのかと思つてゐただけぢやありませんか?』
『いや失敬。戯談ですよ。貴方と校長と比べるのは酷でした。』
『もうお止しなさいよ。校長が聞いたら怒るでせうね?』
『あの人は一体ああいふ真似が好きなんですよ。それ、此間《こなひだ》も感情教育が何《ど》うだとか斯《か》うだとか言つてゐたでせう?』
『ええ。あの時は私|可笑《をかし》くなつて――』
『真個《ほんと》ですよ。――優美な感情は好かつた。――あんな事をいふつてのは一種の生理的なんですね。』
『え?』
『貴方はまだ校長の細君に逢つた事はありませんでしたね?』
『ええ。』
『大将細君には頭が上らないんですよ。――聟《むこ》ですからね。それに余《あんま》り子供が多過るもんですからね。』
『………』
『実際ですよ。土芋《つちいも》みたいにのつぺりした、真黒な細君で、眼ばかり光らしてゐますがね。ヒステリイ性でせう。それでもう五人子供があるんです。』
『五人ですか?』
『ええ。こんだ六人目でせう。またそれで実家《うち》へ帰つてるんださうですから。』
『もうお止しなさい。聞えますよ。』
『大丈夫です。』
さう言つたが、多吉は矢張《やつぱ》りそれなり口を噤《つぐ》んだ。間隔《あひだ》は七八間しかなかつた。
雀部は下から揶揄《からか》つた。『…………………………今井さん、矢沢さん。』
校長も嗄《かす》れた声を出して呼んだ。『少し早く歩いて下さい。』
『急ぎませう。急ぎませう。』と松子は後から迫《せ》き立てた。
追着くと多吉は、
『貴方方は仲々早いですね。』
『早いも遅いもないもんだ。何をそんなに――話してゐたのですか?』雀部は両手を上衣の衣嚢《かくし》に突込んで、高い体を少し前へ屈めるやうにしながら、眼で笑つて言ふ。『目賀田さんは、若い者は放つて置く方が可《い》いつて言ふ説だけれども、私は少し――ねえ、校長さん。』
『全く。ふふふふ。』
『済みませんでした。下駄党の敗北ですね。――だが、今私達が何をまあ話しながら来たと思ひます?』
『…………………………?』
と目賀田が言つた。すると校長も、
『何だか知らないが、遠くからは何うも………』
『困りましたなあ。そんな事よりもつと面白い事なんですよ。――貴方方の批評をしながら来たんですよ。』
『私達の?』
『何ういふ批評です?』
雀部と校長が同時に言つた。
『えゝ、さうなんです。上から見ると、てくてく歩いてるのが面白いですもの。』
『それだけですか?』
『怒つちや可けませんよ。――貴方方が齢の順で歩いてゐたんでせう? だから屹度あの順で死ぬんだらうつて言つたんです。はははは。上から見ると一歩《ひとあし》一歩《ひとあし》お墓の中へ下りて行くやうでしたよ。』
『これは驚いた。』校長はさう言つて、態《わざ》とでもない様に眼を円《まろ》くした。そして、もう一度、『これは驚いた。』
「何を驚くの
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