うでせうか。』と言つて、松子は苦もなく笑つた。『大丈夫歩いてお目にかけますわ。慣れてるんですもの。』
『坂がありますよ。』
『大丈夫、先生。』
『そんな事を言はないで、今のうちに草鞋を買はせなさい。老人《としより》は悪い事は言はない。三里と言つても随分上つたり下つたりの山路ですぞ。』
さう言つて目賀田は、目の前に嶮しい坂が幾つも幾つも見えるやうな目付をした。松子は又笑つた。心では自分が草鞋を穿いて此の人達と一緒に歩いたら、どんな格好に見えるだらうと想像して見た。そして、何もそんなにしてまで行かなくても可いのだと思つてゐた。
さうしてるところへ、玄関に下駄の音がして多吉が入つて来た。
『貴方《あんた》もか、今井さん?』と目賀田が突然《いきなり》問ひかけた。
『何です?』
『貴方も下駄で行くのですかい?』
『ええ。何うしてです?』
『何うしてもないが、貴方方《あんたがた》が二人――貴方は男だからまあ可いが、矢沢さんが途中で歩けなくなつたら、皆《みんな》で山の中へ捨てて来ますぞ。』
言葉は笑つても、心は憎悪《にくしみ》であつた。
多吉は、『それあ面白いですね。誰でも先に歩けなくなつた人は捨てて来る事にしませう。』声を高くして、『ねえ、先生。』
障子の彼方《かなた》にはがちやりと膳部の音がした。校長が、『私は可いが、目賀田さんがそれぢやあ却つてお困りでせう。』
『老人《としより》は別物さ。』と目賀田も言ふ。
多吉は子供らしく笑つた。
『然し、靴なんかよりは下駄の方が余程歩きいいんですよ。――それあ草鞋は一番ですがね。貴方は矢張《やつぱり》草鞋ですか?』
『俺《わし》かな? 俺は草鞋さ。』
さう言つて老人は横を向いて了つた。「可愛気のない人達だ。」と眼が言つた。
やがて髯の赤い首席の雀部《ささべ》が遅れた分疏《いひわけ》をしながら入つて来た時、校長ももう朝飯が済んだ。埃と白墨《チヨオク》の粉《こ》の染《し》みた詰襟の洋服に着替へ、黒い鈕《ボタン》を懸けながら職員室に出て来ると、目賀田は、補布《つぎ》だらけな莫大小《メリヤス》の股引の脛を火鉢に焙《あぶ》りながら、緩《ゆる》りとした調子で雀部と今朝の霧の話を始めてゐた。其の容子は、これから又|隣村《りんそん》まで行かねばならぬ事をすつかり忘れてゐるもののやうにも見えた。故意に出発の時刻を遅くしようとしてゐるのかとも見えた。
『蝙蝠傘を翳《さ》してるのになあ、貴方《あんた》、それだのに此の禿頭から始終《しよつちゆう》雫が落ちてくるのですものなあ。』
こんな事を言つて、後頭《うしろ》にだけ少し髪《け》の残つてゐる滑かな頭をつるりと撫でて見せた。皆《みんな》は笑つた。笑ひながら多吉は、此の老人にもう其の話を結末《おしまひ》にせねばならぬ暗示を与へる事を気の毒に思つた。それと同時に、何がなしに此の老人が、頭の二つや三つ擲つてやつても可《い》い程|卑《さも》しい人間のやうに思はれて来た。
校長にも同じやうな心があつた。老人の後《うしろ》に立つてゐて、お付合のやうに笑ひながら窓側《まどぎは》の柱に懸つてゐる時計を眺め、更に大形の懐中時計を衣嚢《かくし》から出して見た。
雀部は漸く笑ひ止んで、揶揄《からか》ふやうな口を利いた。
『あの帽子は何うしたのです? 冠つて来なかつたのですか?』
『あれですか? あれはな、』目賀田は何の為ともなく女教師の顔を盗むやうに見た。『はははは、遺失《おと》して了ひました哩《わい》。』
『ほう。惜い事をしたなあ。却々《なかなか》好い帽子だつたが……。もう三十年近く冠つたでせうな?』
『さあ、何年から。……自分から言つては可笑《をか》しいが、買つた時は――新しい時は見事でしたよ。汽船《ふね》で死んだ伜が横浜から土産に買つて来て呉れたのでな。羅紗《ラシヤ》は良し――それ、島内といふ郡長がありましたな。あの郡長が巡回に来て、大雨で一晩泊つて行つた時、手に取つてひつくら返しひつくら返し見て褒めて行つた事がありました哩。――外の事は何にも褒めずにあの帽子だけをな。』
『何うして遺失《おと》したんです?』と多吉は真面目な顔をして訊いた。
『それがさ。』老人は急に悄気《しよげ》た顔付をして若い教師を見た。それから其の眼を雀部の髯面に移した。
『先月、それ、郡視学が巡《まは》つて来ましたな?』
『はあ、来ました。』
『あの時さ。』と目賀田は少し調子づいた。『考へて見れば好い面《つら》の皮さな。老妻《ばばあ》を虐めて※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を殺《しめ》さしたり、罎詰の正宗を買はしたり、剰《おまけ》にうんと油を絞られて、お帰りは停車場まで一里の路をお送りだ。――それも為方《しかた》がありませんさ。――ところで汽車が発つと何うにも胸が収まらない。例《いつも
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