ぢやありませんか?』
『僕は唯|可笑《をかし》かつた。口惜しくつて男泣きに泣いたなんか振《ふる》つてるぢやありませんか?』
『一体あれは真個《ほんと》でせうか? 誰か中傷したんでせうか?』
『さあ。貴方は何と思ひます?』
『解らないわ。………。』
『我田引水ですね。』
『ぢやないのよ。ですけれども、何だかそんな気がするわ。』
『男の方では…………………………………?』
『ええ。まあそんな………。そしてあの山屋さんて方、屹度私、意志の弱い方だと思ふわ。』
『さうかも知れませんね。………』
『ですけれど、誰でせう、視学に密告したのは?』
『それあ解つてますよ。――老人《としより》達があんな子供らしい悪戯《いたづら》をするなんて、可笑いぢやありませんか?』
『真個だわ。………私達の知つてる人でせうか?』
『知れてるぢやありませんか?』
『雀部先生ね。屹度さうだわ。――大きい声では言はれないけれども。』
『あ、お待ちなさい。』
と言つて多吉は聞耳を立てた。
渓川の水がさらさらと鳴つた。
『声がしたんですか?』
『黙つて。』
二人は坂を見上げた。空は僅かに夕照《ゆふばえ》の名残をとどめてゐるだけで、光の淡《うす》い星影が三つ四つ数へられた。
『あら、変だわ。声のするのは彼方《あつち》ぢやありませんか?』と、稍あつて松子は川下の方を指した。
『さうですね。……変ですね。』
『若しか外の人だつたら、私達が此処に斯《か》うしてるのが可笑いぢやありませんか?』
『ああ、あれは雀部さんの声だ。さうでせう? さうですよ。』
『ええ、さうですね。何うして彼方《あつち》から……』
多吉は両手で口の周囲《まはり》を包むやうにして呼んだ。『先生い。何処を歩いてるんでせう?』
『おう。』と間《ま》をおいて返事が聞えた。確かに川下の方からであつた。
間もなく夕暗《ゆふやみ》の川縁に三人の姿が朧気《おぼろげ》に浮び出した。
『何うしてそんな方から来たんです?』
『今井さん一人ですか?』
『矢沢さんもゐます。余り遅いから今もう先に帰つて了はうかと思つてゐたところでした。』
『いや、済みませんでした。』
『何《ど》うしてそんな方から来たんです? 其方には路がなかつたぢやありませんか?』
『いや、失敗失敗。』
それは雀部が言つた。
『狐にでも魅《つま》まれたんですか?』
『今井さん、穏《おとな》しく貴方《あんた》と一緒に先に来れば可かつた。』へとへとに疲れたやうな目賀田の声がした。
『いやもう、狐なら可いが、雀部さんに魅《つま》まれてさ。』
『それはもう言ひつこなし。降参だ、降参だ。』と雀部がいふ。
其の内に三人とも橋の上に来た。
『ああ疲れた。』校長は欄干に片足を載せて腰かけた。『矢沢さん、どうも済みませんでした。』
『いいえ。何うなすつたのかと思つて。』
『真個に済みませんでしたなあ。』と雀部は言つた。『多分もう学校へ帰つてオルガンでも弾いてらつしやるかと思つた。』
『今井さん、まあ聞いて下さい。』目賀田老人は腰を延ばしながら訴へるやうな声を出した。『………彼処《あすこ》で、止せば可いのに可加減《いいかげん》飲んでね。雀部さん達はまだ俺《わし》より若いから可いが、俺はこれ此の通りさ。そしたら雀部さんが、近路があるから其方を行つて、貴方方に追付かうぢやないかと言ふんだものな。賛成したのは俺も悪いが、それはそれは酷い坂でね。剰《おまけ》に辛《やつ》と此の川下へ出たら、何うだえ貴方《あんた》、此間《こなひだ》の洪水《みづまし》に流れたと見えて橋が無いといふ騒ぎぢやないか。それからまた半里《はんみち》も斯うして上つて来た。いやもう、これからもう雀部さんと一緒には歩かない。』
『ははは。』と多吉は笑つた。
『然しまあ可かつた。彼処に橋が有つたら、危くお二人を此処に置去りにするところでしたよ。』
『私はもう黙つてる。何うも四方八方へ私が済まない事になつた。』と雀部は笑ひながら頭を掻いた。
『ところで、何方《どなた》か紙を持つてませんかな? 俺は今まで耐《こら》へて来たが………一寸皆さんに待つて貰つて。』
紙は松子の袂から出た。
『少し臭いかも知れないから、も少し先へ行つて休んでて下さい。今井さん、これ頼みます。』
さう言つて目賀田は蝙蝠傘《かうもりがさ》を多吉に渡し、痛い物でも踏むやうな腰付をして、二三間離れた橋の袂の藪陰に蹲《つくば》つた。禿げた頭だけが薄《うつ》すりと見えた。
『置去りにしますよ、目賀田さん。』
さう雀部は揶揄《からか》つた。然し返事はなかつた。
四人は橋を渡つた。そして五六間来ると其処等の山から切出す花崗石《みかげいし》の石材が路傍に五つ六つ転《ころが》してあつた。四人はそれぞれ其上に腰掛けた。
『ああ疲れた。』
校長はまた言つた
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