。
『真個に疲れましたなあ。』と雀部も言つた。
『斯う疲れると、もう何も彼も要らない。………彼処の家でも皆で二升位飲んだでせうね?』
『一升五合位なもんでせう。皆下地のあつたところへ酒が悪かつたから、一層《いつそ》利いたのですよ。』
『此処へもう、寝て了ひたくなつた。』
校長は薄暗い中で体をふらふらさしてゐた。
『目賀田さんは随分弱つたやうですね。』と多吉が言つた。
『いや真個に気の毒でした。彼処の橋のない処へ来たら、子供みたいにぶつぶつ言つて歩かないんだもの。』
『あの態《ふう》ぢや何《ど》うせ学校へ泊るんでせうね?』
『兎《と》ても帰れとは言はれません。』校長が言つた。『一体お老人《としより》は、今日のやうな遠方の会へは出なくても可ささうなもんですがねえ。』
『校長さん、さうは言ひなさるな。誰が貴方、好き好んで出て来るもんですか? 高い声では言はれないが、目賀田さんは私あ可哀相だ。――老朽の准訓導でさ。何時《なんどき》罷《や》めさせられるかも知れない身になつたら………』
『それはさうです。全くさうです。』
『それを今の郡視学の奴は、あれあ莫迦ですよ。何処の世に、父親《おやぢ》のやうな老人《としより》を捉へてからに何だの彼《か》だの――あれあ余程莫迦な奴ですよ。莫迦でなけれあ人非人だ。』
酒気の名残があつた。
『解りました。』と、舌たるい声で校長が言つた。
話が切れた。
待つても待つても目賀田は来なかつた。遂々《たうたう》雀部は大きな※[#「口+去」、第3水準1−14−91]呻《あくび》をした。
『ああ眠くなつた。目賀田さんは何うしたらうなあ。まさかあの儘寝て了つたのぢやないだらうか。』
『今来るでせう。ああ、小使が風炉《ふろ》を沸かしておけば可いがなあ。』
さう言ふ校長の声も半分は※[#「口+去」、第3水準1−14−91]呻《あくび》であつた。
水の音だけがさらさらと聞えた。
「己はまだ二十二だ。――さうだ、たつた二十二なのだ。」多吉は何の事ともつかずに、さう心の中に思つて見た。
そして巻煙草に火を点けて、濃くなりまさる暗《やみ》の中にぽかりぽかりと光らし初めた。
松子はそれを、隣りの石から凝《じつ》と目を据ゑて見つめてゐた。
[#地から1字上げ]〔「新小説」明治四十三年四月号〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1986(昭和61)年12月15日初版第6刷発行
底本の親本:「新小説 第十五巻第四号」
1910(明治43)年4月1日発行
初出:「新小説 第十五巻第四号」
1910(明治43)年4月1日発行
入力:林 幸雄
校正:川山隆
ファイル作成:
2008年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全13ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング