が、眇目《かため》の教師はそれなり余り口を利かなかつた。従つて肝腎の授業の批評は一向|栄《は》えなかつた。シとス、チとツなどの教師の発音の訛りを指摘したのや、授業中一学年の生徒を閑却した傾きがあつたといふ説が出たぐらゐで、座は何となく白けた。さうしてる処へ其の村の村長が来た。盃が俄かに動いて、話は全くの世間話に移つて行つた。
 三時になつて一同引上げる事になつた。門を出た時、半分以上は顔を赧《あか》くしてゐた。中にも足元の確《たし》かでない程に酔つたのは目賀田であつた。
 路の岐《わか》れる毎に人数《ひとかず》が減つた。とある路傍の屋根の新しい大きい農家の前に来た時、其処まで一緒に来た村長は、皆を誘つて其の家に入つて行つた。其処には村の誇りにしてある高価な村有|種馬《しゆば》が飼はれてあつた。
 家の主人《あるじ》は喜んで迎へた。そして皆が厩舎《うまや》を出て裏庭に廻つた時は、座敷の縁側に薄縁《うすべり》を布いて酒が持ち出された。それを断るは此処等の村の礼儀ではなかつた。
 多吉と松子は、稍あつてから一足先に其の家を出て来たのであつた。
 二人は暫くの間坂の頂《いただき》に推黙つてゐた。
『屹度酔つてらつしやるのでせうね?』
『ええ、さうでせう。真個《ほんと》に為様《しやう》がない。』
 と言つて、多吉は巻煙草に火を点けた。
 然し二人は、日の暮れかかる事に少しも心を急がせられなかつた。待つても待つても来ない老人《としより》達を何時までも待つてゐたいやうな心持であつた。
 稍あつて多吉は、
『僕も年老《としよ》つて飲酒家《さけのみ》になつたら、ああでせうか? 実に意地が汚ない。目賀田さんなんか盃より先に口の方を持つて行きますよ。』
『ええ。そんなに美味《おいし》いものでせうか?』
『さあ。………僕も一度うんと飲んだ事がありますがね。何だか変な味がするもんですよ。』
『何時《いつ》お上りになつたんです?』
『兄貴の婚礼の時。皆が飲めつて言ふから、何糞と思つてがぶがぶやつたんですよ。さうすると体が段々重くなつて来ましてねえ。莫迦に動悸が高くなるんです。これあ変だと思つて横になつてると、目の前で話してる人の言葉がずつと遠方からのやうに聞えましたよ。………それから終《しまひ》に、綺麗な衣服《きもの》を着た兄貴のお嫁さんが、何だか僕のお嫁さんのやうに思はれて来ましてねえ。僕はまだ嫁なんか貰ふ筈ぢやなかつたがと思つてるうちに、何時の間にか眠つちやつたんです。』
『面白いのね。お幾歳《いくつ》の時です?』
『十七の時。』
 多吉は腰掛けた石の冷気を感じて立ち上つた。そして今来た方を見渡したが、それらしい人影も見えなかつた。
『何うしたんでせう?』
『真個《ほんと》にねえ。………斯うしてると川の音が聞えますね。』
『川の音?』
 二人は耳を澄ました。
『聞えるでせう?』
『聞えませんよ。』
『聞えますよ。此の下に川があつたぢやありませんか?」
『さう言へば少し聞えるやうですね。………うむ、聞える。彼処《あすこ》まで行つて待つてることにしませうか?』
『さうですね。』
『実に詰らない役だ。』
『真個にね。私がゐなかつたら先へいらつしやるのでせう?』
『はは。』と多吉は高く笑つた。
 二人は坂を下つた。
 渓川の水は暮近い空を映して明《あかる》かつた。二人は其の上の橋の、危なげに丸太を結つた欄干に背を靠《もた》せて列んだ。其処からはもう学校まで十一二町しかなかつた。
『此処で待つて来なかつたら何うします?』
『私は何うでも可くつてよ。』
『それぢや先に帰る事にしますか?』
『帰つても可いけれども、何だか可笑《をかし》いぢやありませんか?』
『そんなら何時まででも待ちますか?』
『待つても可いけれど………』
『日が暮れても?』
『私何うでも可いわ。先生の可いやうに。』
『若しか待つてるうちに日が暮れて了つて、真暗になつたところへ、山賊でも出て来たら何うします?』
『厭ですわ、嚇《おど》かして。』
『其処等の藪ががさがさ鳴つて、豆絞りの手拭か何か頬冠りにした奴が、にゆつと出て来たら?』
『出たつて可いわ。先生がいらつしやるから。』
『僕は先に逃げて了《し》まひますよ。』
『私も逃げるわ。』
『逃げたつて敵《かな》ひませんよ。後から襟首をぐつと捉へて、生命欲しいか金欲しいかと言つたら何うします?』
『お金《わし》を遣るわ。一円ばかししか持つてないから。』
『それだけぢや足らないつて言つたら?』
『そしたら………そしたら、先に逃げた先生がどつさり持つてるから、あの方へ行つてお取りなさいつて言つてやるわ。ほほほ。』
『失敗《しま》つた。此の話はもつと暗くなつてからするんだつけ。』
『随分ね。………もう驚かないから可いわ。』
『真個《ほんと》ですか?』
『真
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