たやうですね。』
多吉は無雑作に路傍の石に腰を掛けた。松子は少し離れて納戸色《おなんどいろ》の傘を杖に蹲《しやが》んだ。
其処はもうS――村に近い最後の坂の頂《いただき》であつた。二人は幾度か斯うして休んでは、寄路をして遅れた老人《としより》達を待つた。待つても待つても来なかつた。さうして又歩くともなく歩き出して、遂々《たうたう》此処まで来てしまつた。
日はもう午後五時に近かつた。光の海のやうに明るい雲なき西の空には、燃え落《おつ》る火の玉のやうな晩秋の太陽が、中央山脈の上に低く沈みかけてゐた。顫《ふる》へるやうな弱い光線が斜めに二人の横顔を照した。そして、周匝《あたり》の木々の葉裏にはもう夕暮の陰影《かげ》が宿つて見えた。
行く時のそれは先方《むかう》にゐるうちに大方癒つてゐたので、二人はさほど疲れてゐなかつた。が、流石に斯うして休んでみると、多吉にも膝から下の充血してゐる事が感じられた。そして頭の中には話すべき何物もなくなつてゐるやうに軽かつた。
授業の済んだ後、栗が出た、酒が出た、栗飯が出た。そして批評が始つた。然し其の批評は一向にはずまなかつた。それは一つは、思掛けない出来事の起つた為であつた。
『それでは徐々《そろそろ》皆さんの御意見を伺ひたいものであす。』さう主人役の校長が言出した時、いつもよく口を利く例になつてゐる頭の禿げた眇目《かため》の教師が、俄かに居ずまひを直して、八畳の一間にぎつしりと座り込んでゐる教師達を見廻した。
『批評の始る前に――と言つては今日の会を踏みつけるやうで誠に済まない訳ですが――実は一つ、私から折入つて皆さんの御意見を伺つて見たい事があるのですが………自分一個の事ですから何ですけれども、然し何うも私としては黙つてゐられないやうな事なので。』
一同何を言ひ出すのかと片唾《かたづ》をのんだ。常から笑ふ事の少い眇目《かため》の教師の顔は、此の日殊更苦々しく見えた。そして語り出したのは次のやうな事であつた。――先月の末に郡役所から呼出されたので、何の用かと思つて行つて見ると、郡視学に別室へ連れ込まれて意外な事を言はれた。それは外でもない。自分が近頃………………………………………………といふ噂があるとかで、それを詰責されたのだ。――
『実に驚くではありませんか? 噂だけにしろ、何しろ私が先づ第一に、独身で斯うしてゐなさる山屋さんに済みません。それに私にしたところで、教育界に身を置いて彼是《かれこれ》三十年の間、自分の耳の聾だつたのかも知れないが、今迄つひぞ悪い噂一つ立てられた事がない積りです。自賛に過ぎぬかも知れないが、それは皆さんもお認め下さる事と思ひます。……実に不思議です。私は学校へ帰つて来てから、口惜《くや》しくつて口惜しくつて、男泣きに泣きました。』
………………………………………………………………………………………。
『………口にするも恥《は》づるやうなそんな噂を立てられるところを見ると、つまり私の教育家としての信任の無いのでせう。さう諦めるより外仕方がありません。然し何うも諦められません。――一体私には、何処かさういふ噂でも立てられるやうな落度があつたのでせうか?』
一同顔を見合すばかりであつた。と、多吉はふいと立つて外へ出た。そして便所の中で体を揺《ゆすぶ》つて一人で笑つた。苦り切つた××の眇目《かため》な顔と其の話した事柄との不思議な取合せは、何うにも斯うにも可笑しくつて耐らなかつたのだ。「あの老人《としより》が男泣きに泣いたのか。」と思ふと、又しても新らしい笑ひが口に上つた。
多吉の立つた後、一同また不思議さうに目を見合つた。すると誰よりも先に口を開いたのは雀部であつた。
『何うも驚きました。――然し何うも、郡視学も郡視学ではありませんか? ××さんにそんな莫迦な事のあらう筈のない事は、苟《いやし》くも瘋癲《ばか》か白痴《きちがひ》でない限り、何人《なにびと》の目も一致するところです。たとへそんな噂があつたにしろ、それを取上げて態々《わざわざ》呼び出すとは………』
『いや今日私のお伺ひしたいのは、そんな事ではありません。視学は視学です。………それよりも一体何うしてこんな噂が立つたのでせう?』と、語気が少し強かつた。
『誰か生徒の父兄の中にでも、何かの行違ひで貴方を恨んでる――といふやうなお心当りもありませんのですか?』
仔細らしい顔をした一人の教師が、山羊のやうな顋《あご》の髯を撫でながらさう言つた。
『断じてありません。色々思出したり調べたりして見ましたけれども。』と強く頭を振つて××は言つた。「此の一座の中になくて何処にあらう?」といふやうな怒りが眼の中に光つた。或者は潜《ひそ》かに雀部の顔を見た。
それも然し何《ど》うやら斯《か》うやら収りがついた。
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