も見えた。
『蝙蝠傘を翳《さ》してるのになあ、貴方《あんた》、それだのに此の禿頭から始終《しよつちゆう》雫が落ちてくるのですものなあ。』
こんな事を言つて、後頭《うしろ》にだけ少し髪《け》の残つてゐる滑かな頭をつるりと撫でて見せた。皆《みんな》は笑つた。笑ひながら多吉は、此の老人にもう其の話を結末《おしまひ》にせねばならぬ暗示を与へる事を気の毒に思つた。それと同時に、何がなしに此の老人が、頭の二つや三つ擲つてやつても可《い》い程|卑《さも》しい人間のやうに思はれて来た。
校長にも同じやうな心があつた。老人の後《うしろ》に立つてゐて、お付合のやうに笑ひながら窓側《まどぎは》の柱に懸つてゐる時計を眺め、更に大形の懐中時計を衣嚢《かくし》から出して見た。
雀部は漸く笑ひ止んで、揶揄《からか》ふやうな口を利いた。
『あの帽子は何うしたのです? 冠つて来なかつたのですか?』
『あれですか? あれはな、』目賀田は何の為ともなく女教師の顔を盗むやうに見た。『はははは、遺失《おと》して了ひました哩《わい》。』
『ほう。惜い事をしたなあ。却々《なかなか》好い帽子だつたが……。もう三十年近く冠つたでせうな?』
『さあ、何年から。……自分から言つては可笑《をか》しいが、買つた時は――新しい時は見事でしたよ。汽船《ふね》で死んだ伜が横浜から土産に買つて来て呉れたのでな。羅紗《ラシヤ》は良し――それ、島内といふ郡長がありましたな。あの郡長が巡回に来て、大雨で一晩泊つて行つた時、手に取つてひつくら返しひつくら返し見て褒めて行つた事がありました哩。――外の事は何にも褒めずにあの帽子だけをな。』
『何うして遺失《おと》したんです?』と多吉は真面目な顔をして訊いた。
『それがさ。』老人は急に悄気《しよげ》た顔付をして若い教師を見た。それから其の眼を雀部の髯面に移した。
『先月、それ、郡視学が巡《まは》つて来ましたな?』
『はあ、来ました。』
『あの時さ。』と目賀田は少し調子づいた。『考へて見れば好い面《つら》の皮さな。老妻《ばばあ》を虐めて※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を殺《しめ》さしたり、罎詰の正宗を買はしたり、剰《おまけ》にうんと油を絞られて、お帰りは停車場まで一里の路をお送りだ。――それも為方《しかた》がありませんさ。――ところで汽車が発つと何うにも胸が収まらない。例《いつも
前へ
次へ
全26ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング