を脱ぎながら校長が言つた。
「何が恰度だらう。」と、多吉はまた心の中に可笑くなつた。「誰も何とも定《き》めはしないのに。」
『そんなら私、帰途《かへり》には早く歩いてお目にかけますわ。』
 松子は鼻の先に皺を寄せて、甘へるやうに言つた。
 それから半時間ばかり経《た》つと、始業の鐘が嗄《かす》れたやうな音《ね》を立てて一しきり騒がしく鳴り響いた。多くは裸足《はだし》の儘で各《おの》がじし校庭に遊び戯れてゐた百近い生徒は、その足を拭きも洗ひもせず、吸ひ込まれるやうに暗い屋根の下へ入つて行つた。がたがたと机や腰掛の鳴る音。それが鎮まると教師が児童出席簿を読上げる声。――『淵沢長之助、木下勘次、木下佐五郎、四戸佐太《しのへさた》、佐々木|申松《さるまつ》………。』
『はい、はい………』と生徒のそれに答へる声。
 愈々《いよいよ》批評科目の授業が始つた。『これ前の修身の時間には、皆さんは何を習ひましたか。何といふ人の何をしたお話を聞きましたか。誰か知つてゐる人は有りましえんか。あん? お梅さん? さうであした。お梅さんといふ人の親孝行のお話であした。誰か二年生の中で、今其のお話の出来る人が有りましえんか。』――斯ういふ風に聞き苦しい田舎教師の言葉が門の外までも聞えて来た。門に向いた教室の格子窓には、窓を脊にして立つてゐる参観の教師達の姿が見えた。
 がたがたと再び机や腰掛の鳴る音の暗い家《うち》の中から聞えた時は、もう五十分の授業の済んだ時であつた。生徒は我も我もと先を争うて明い処へ飛び出して来た。が、其の儘家へ帰るでもなく、年長《としかさ》の子供等は其処此処に立つて何かひそひそ話し合つてゐた。門の外まで出て来て、『お力《りき》い、お力い。』と体を屈《こご》めねばならぬ程の高い声を出して友達を呼んでゐる女の子もあつた。
 教師達は五人も六人も玄関から出て来て、交る交る裏手の便所へ通つた。其の中には雀部もゐた、多吉もゐた。多吉は大きい欠呻《あくび》をしながら出て来て、笑ひながら其処辺《そこら》にゐる生徒共を見廻した。多くは手織の麻か盲目地《めくらぢ》の無尻に同じ股引を穿《は》いたそれ等の服装《みなり》は、彼の教へてゐるS村の子供とさしたる違ひはなかつた。それでも「汽車に遠い村の子供」といふ感じは何処となく現れてゐた。生徒の方でも目引き袖引きして此の名も知らぬ若い教師を眺めた。
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