》の声が鎮まつてゐて、校庭の其処からも此処からもぞろぞろと子供等が駈けて来て交る交る礼をした。水槽《みづぶね》の水に先を争うて首を突き出す牧場の仔馬《こうま》のやうでもあつた。
『さあさあ、何卒《どうぞ》。』ひどく訛《なまり》のある大きい声が皆の眼を玄関に注がせた。其処には背の低い四十五六の男が立つて、揉手をしながら愛相笑ひをしてゐた。色の黒い、痘痕《あばた》だらけの、蟹の甲羅のやうな道化《おどけ》た顔をして、白墨《チヨオク》の粉の着いた黒木綿の紋付に裾短い袴を穿いた――それが真面目な、教授法の熟練な教師として近郷に名の知れてゐる、二十年の余も同じ山中の単級学校を守つて来た此処の校長の田宮であつた。
『もう皆さんはお揃ひですか。』
『さうであす。先刻《さつき》から貴方方のお出をお待ち申してゐたところで御《ご》あした。』
『お天気で何よりでしたなあ。』
『真個《ほんと》にお陰さまであした。――さあ、ままあ何卒《どうぞ》。』
『□□の先生はもう来ましたか。』と雀部は路すがら話した眇目《かため》の教師の事を聞いた。
『××さんは今日の第一着であした。さ、さ、まあ――』
『何卒《どうぞ》お先に。』と目賀田は校長を顧る。
『私は一寸、便所に。』
 さう言つて校長は校舎の裏手に廻つて行つた。雀部は靴を脱いで上り、目賀田は危つかしい手つきをして草鞋の紐を解きかけた。下駄を穿いた二人はまだ外に立つてゐた。生徒共は遠巻に巻いて此の様を物珍らし気に眺めてゐた。
『生徒が門のところで礼をしましたね。』
 女教師が多吉に囁いた。
『ええ。今日は授業批評会ですからね。』と多吉も小声で言ふ。
『それぢや臨時でせうか。』
『臨時でなかつたら馬鹿気てゐるぢやありませんか。――批評会は臨時ですからね。』
『ええ。』
『生徒は単純ですよ。為《し》ろと言へは為《す》るし、為《す》るなと言へば為《し》ないし、………学校にゐるうちだけはね。』
 其処へ校長が時計を出して見ながら、便所から帰つて来た。
『恰度《ちやうど》十時半です。』
『さうですか。』
『恰度三時間かかりました。一里一時間で、一分も違はずに。』
 さう言つた顔は如何にもそれに満足したやうに見えた。
 多吉は何がなしに笑ひ出したくなつた。そして松子の方を向いて、
『貴方がゐないと、もつと早く来られたんですね。』
『恰度に来たから可いでせう。』靴
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