日初めて聞いたものではなかつた。然し彼は、汽車に近い村と汽車に遠い村との文化の相違を、今漸く知つたやうな心持であつた。地図の上では細い筆の軸にも隠れて了ふ程の二つの村にもさうした相違のあるといふ事は、若い准訓導の心に、何か知ら大きい責任のやうな重みを加へた。
それから彼此《かれこれ》一里の余も歩くと、山と山とが少し離れた。其処は七八|町歩《ちやうぶ》の不規則な形をした田になつてゐて、刈り取つた早稲の仕末をしてゐる農夫の姿が、機関仕掛《からくりじかけ》の案山子《かかし》のやうに彼方此方《あちこち》に動いてゐた。田の奥は山が又迫つて、二三十の屋根が重り合つて見えた。
馬の足跡の多い畝路《あぜみち》を歩き尽して、其の部落に足を踏み入れた時、多吉も松子もそれと聞かずにもう学校の程近い事を知つた。物言はぬ人のみ住んでゐるかとばかり森閑としてゐる秋の真昼の山村の空気を揺がして、其処には音とも声ともつかぬ、遠いとも近いとも判り難い、一種の底深い騒擾《どよめき》の響が、忘れてゐた自分の心の声のやうな親みを以て、学校教師の耳に聞えて来た。
何となく改まつたやうな心持があつた。草に埋《うづも》れた溝と、梅や桃を植ゑた農家の垣根の間の少し上りになつた凸凹路《でこぼこみち》を、まだ二十歩とは歩かぬうちに、行手には二三人の生徒らしい男の児の姿が見えた。其の一人は突然《いきなり》大きい声を出して、『来た。来た。』と叫んだ。年長《としかさ》の一人はそれを制するらしく見えた。そして一緒に、敵を見付けた斥候のやうに駈けて行つて了つた。目賀田は立止つて端折つた裾を下し、校長と雀部をやり過して、其の後に跟《つ》いた。
雨風に朽ちて形ばかりに立つてゐる校門が見えた。農家を造り直して見すぼらしい茅葺の校舎も見えた。門の前には両側に並んでゐる二三十人の生徒があつた。大人のやうに背のひよろ高いのもあれば、海老茶色の毛糸の長い羽織の紐を総角《あげまき》のやうに胸に結んでゐるのもあつた。一目見て上級の生徒である事が知れた。
『甘くやつてる哩《わい》。』と多吉は先づ可笑く思つた。それは此処の学校の教師の周到な用意に対してであつた。
一行が前を通る時に、其の生徒共は待構へてゐたやうに我遅れじと頭を下げた。「ふむ。」と校長も心に点頭《うなづ》くところがあつた。気が付くと、其の時はもう先に聞えてゐた騒擾《どよめき
前へ
次へ
全26ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング