ね?』と目賀田は穏《おとな》しく聞いた。
『田宮の吝嗇家《しみつたれ》だもの、一銭だつて余計に金のかかる事をするもんですか。屹度昨日あたり、裏の山から生徒に栗を拾はして置いたんでせうさ。まあ御覧なさい、屹度当るから。』
『成程、雀部さんの言ふ通りかも知れませんね。』
 二三度首を傾げて見てから、校長も同意した。
 坂を下り尽すとまた渓川《たにがは》があつた。川の縁には若樹の漆《うるし》が五六本立つてゐて、目も覚める程に熟しきつた色の葉の影が、黄金の牛でも沈んでゐるやうに水底《みづそこ》に映つてゐた。川上の落葉を載せた清く浅い水が、飴色の川床の上を幽かな歌を歌つて流れて行つた。S――村は其処に尽きて、橋を渡ると五人の足はもうT――村の土を踏んだ。
 路はそれから少し幅広くなつた。出《で》つ入《い》りつする山と山の間の、土質の悪い畑地の中を緩やかに逶《うね》つて東に向つてゐた。日はもう高く上《のぼ》つて、路傍の草の葉も乾いた。畑の中には一軒二軒と圧しつぶされたやうな低い古い茅葺の農家が、其処此処に散らばつてゐた。狼のやうな顔をした雑種らしい犬が、それ等の家から出て来て、遠くから臆病らしく吠え立てた。
 多吉にも松子にも何となく旅に出たやうな感じがあつた。出逢つた男や女も、多くはただ不思議さうに見迎へ見送るばかりであつた。偶《たま》に礼をする者があつても、行違ふ時はこそこそと擦抜《すりぬ》けるやうにして行つた。
 居村《きよそん》の路を歩く時に比べて、親みの代りに好奇心があつた。
『田が少いですね。』
 多吉は四辺《あたり》を見渡しながら、そんな事を言つて見た。山も、木も、家も、出逢ふ人も、皆それぞれに特有な気分の中に落着いてゐるやうに見えた。そして其の気分と不時の訪問者の自分|等《たち》とは、何がなしに昔からの他人同志のやうに思はれた。読んだ事のない本の名を聞いた時に起す心持は、やがて此の時の多吉の心持であつた。
『粟と稗と蕎麦ばかり食つてるから、此の村の人のする糞は石のやうに堅くて真黒だ。』雀部はそんな事を言つて多吉と松子を笑はせた。さういふ批評と観察の間にも、此の中老の人の言葉には、自分の生れ、且つ住んでゐる村を誇るやうな響きがあつた。
『此の村の女達の半分は、今でもまだ汽車を見た事がないさうです。』といふ風に校長も言つて聞かせた。
 それ等の言葉は必ずしも多吉の今
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