訓導も笑つた。此前の会が此の学校に開かれた時、茶受に出した麦煎餅を客の手を出さぬうちに今井が一人で喰つて了つた。それが時々此の職員室で思出されては、其の都度新らしい笑ひを繰返してゐたのである。話に聞いてゐる松子も、声を出して一緒に笑つた。
 それは二三日前の事であつた。
 其の日が来た。秋の半ば過の朝霧が家並《やなみ》の茅葺屋根の上半分を一様に消して了ふ程重く濃く降りた朝であつた。S――村では、霧の中で鶏が鳴き、赤児が泣き、馬が嘶《いなな》いた。山を負うた小学校の門の前をば、村端れの水汲場に水汲みに行く大きい桶を担いだ農家の女が幾人《いくたり》も幾人《いくたり》も、霧の中から現れて来て霧の中へ隠れて行つた。日の出る時刻が過ぎても霧はまだ消えなかつた。
 宿直室に起臥《ねおき》してゐる校長が漸々《やうやう》起きて顔を洗つたばかりのところへ、二里の余も離れた処にある分校の目賀田といふ老教師が先づ来た。草鞋を解き、腰を延ばし、端折つた裾を下して職員室に入ると、挨拶よりも先に『何といふ霧でしたらう、まあ。』と言つて、呆れて了つたといふやうな顔をして立つた。
 取敢へず、着て来た色の褪《さ》めた木綿の紋付を脱いで、小使が火を入れたばかりの火鉢の上に翳《かざ》した。羽織は細雨《こさめ》に遭つたやうにしつとりと濡れてゐて、白い水蒸気が渦巻くやうに立つた。『慣れた路ですけれども、足許しか見えないもんだから何だか知らない路に迷つてゐるやうでしてなあ。いや、五里霧中とは昔の人はよく言つたものだと思ひました哩《わい》。……蝙蝠傘《かうもりがさ》を翳《さ》してるのに、拭いても拭いても顔から雫が滴《た》るのですものなあ。』こんな事を言ひながら頻《しき》りと洟水《はなみづ》を啜つた。もう六十からの老人《としより》であるが、資格はただの准訓導であつた。履歴を訊《ただ》せば、藩の学問所の学頭をした人の嗣《あと》で、県政の布かれてからは長らく漢学の私塾を開いてゐたとかいふ事である。
 羽織が大概《あらまし》乾いた頃に女教師が来た。其の扮装《みなり》を見上げ見下して、目賀田は眼を円くした。
『貴方は下駄ですかい?』
『え。』
 又見上げ見下して、『真箇《ほんと》に下駄で行くのですかい?』
『そんなに悪い路で御座いませうか?』
『下駄では少し辛いでせうよ、矢沢さん。』と校長が宿直室から声を懸けた。
『さ
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