石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)中《うち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五十|面《づら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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 ○○郡教育会東部会の第四回実地授業批評会は、十月八日の土曜日にT――村の第二尋常小学校で開かれる事になつた。選択科目は尋常科修身の一学年から四学年までの合級授業で、謄写版に刷つた其の教案は一週間前に近村の各学校へ教師の数だけ配布された。
 隣村[#「隣村」は底本では「隣付」]のS――村からも、本校分校合せて五人の教師が揃つて出懸ける事になつた。其の中《うち》には赴任して一月と経たぬ女教師の矢沢松子もゐた。『貴方もお出でになつては何《ど》うです?』斯《か》う校長に言はれた時、松子は無論行くべきものと思つてゐたやうに、『参ります。』と答へた。山路三里、往復で六里あると聞いても、左程驚きもしなければ、躊躇する態《ふう》もなかつた。
 机を向ひ合してゐる准訓導の今井多吉は、それを見ながら前《ぜん》の女教師を思出した。独身にしては老《ふ》け過ぎる程の齢をしてゐた其の女の、甲高《かんだか》い声で生徒を叱り飛ばした後で人前も憚らず不興気な顔をしてゐる事があつたり、「女」といふを看板に事々に労を惜んで、楽な方へ楽な方へと廻つてばかりゐたのに比べて、齢の若いとは言ひながら、松子の何の不安も無気《なげ》に穏《おとな》しく自分の新しい境遇に処して行かうとする明い心は、彼の単調な生活に取つて此頃一つの興味であつた。前《ぜん》の女教師の片意地な基督《キリスト》教信者であつた事や、費用《つひえ》をはぶいて郵便貯金をしてゐる事は、それを思出す多吉の心に何がなしに失望を伴つた。それだけ松子の思慮の浅く見える物言ひや、子供らしく口を開《あ》いて笑つたりする挙動《そぶり》が、彼には埃だらけな日蔭のやうに沈んでゐる職員室の空気を明くしてゐるやうに思はれた。
『今井さんは何《ど》うです?』と、校長は人の好ささうな顔に笑ひを浮べて言つた。
『煎餅を喰ひにですか。』と若い准訓導は高く笑つた。『行きますとも。』
 校長も笑つた。髯の赤い、もう五十|面《づら》の首席
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