、隙のない樣に待遇《あしら》つてゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍しい。我知らず熱心になつて、時には自分の考へを言つても見るが、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。歸つた後で考へてみると、男には矢張り氣障《きざ》な厭味《いやみ》な事が多い。殊更に自分の歡心を買はうとすることろが見える。『那《あゝ》した性質の人だ!』と智惠子は考へた。
 智惠子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は例《いつ》に變らぬ調子で男を迎へる。信吾はニヤニヤ心で笑ひ乍ら川崎の家へ歸る。
 暑氣は日一日と酷《きび》しくなつて來た。殊にも今年は雨が少なくて、田といふ田には水が十分でない。日中は家の中でさへ九十度に上る。
 今朝も朝から雲一つ無く、東向の靜子の室の障子が、カッと眩《まぶ》しい朝日を受けて、晝の暑氣が思ひやられる。靜子は朝餐の後を、母から兄の單衣の縫直しを吩咐《いひつか》つて、一人其室に坐つた。
 ちらと鳥影が其障子に映つた。
『靜さん、其單衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて來た。
『兄樣、今日は屹度
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