て、宅許りでも選手《チャンピオン》が三人ゐるんですもの。』
『オヤ、その一人は?』と智惠子は調戲《からか》ふ樣に目で笑ふ。
『此處に。』と頤で我が胸を指して、『下手組の大將よ。』と無邪氣に笑つた。
智惠子は、信吾が歸つてからの靜子の、常になく生々と噪《はしや》いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ樣な情緒を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分との間に、何の情愛がある?
智惠子は我知らず氣が進んだ。『何時《なんじ》から? 靜子さん。』
『今直ぐ、何にも無いんですけど晩餐《ごはん》を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの。一緒に行つて下すつて? 濟まないけど。』
『は。貴女となら何處までゞも。』と笑つた。
軈て智惠子は、『それでは一寸。』と會釋して、『失禮ですわねえ。』と言ひ乍ら、室の隅で着換へに懸つたが、何を思つてか、取出した衣服は其儘に、着てゐた紺絣の平常着《ふだんぎ》へ、袴だけ穿いた。
其後姿を見上げてゐた靜子は、思出す事でもあるらしく笑を含んでゐたが少し小聲で、
『あの、山内樣ね。』
『え。』と此
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