子揃つた足擦れの音、華やかな、古風な、老も若きも戀の歌を歌つてゐる此境地から、不圖目を上げて其靜かな月を仰いだ心持は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に醉はうとするところであらう。――殊にも此夜の智惠子は思ふ人と共にゐる樂みと、體内《みうち》の病苦と、唆る樣な素朴な烈しい戀の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が亂れて、その沈んで行く氣持を強い太皷の響に掻き亂される樣に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰めては眤と月を仰いでゐた。
 怒りと嘲りを浮べた信吾の顏が、時々胸に浮んだ。智惠子は、今日その信吾の厚かましくも言ひ出でた戀を、小氣味よく拒絶して了つたのだ。
 立つたり蹲《しやが》んだりしてる間に、何がなしに腹が脹つて來て、一二度輕く嘔吐を催すやうな氣分にもなつた。早く歸つて寢よう、と幾度か思つた。が、この歡樂の境地に――否、靜子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張り快くなかつた。居たとて別に話――智惠子は今日の出來事を詳しく話したかつた――をする機會もないが、矢張り一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。
 軈て、下腹の底が少しづゝ痺《しび》れる樣に痛み出した
前へ 次へ
全201ページ中177ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング