らう。髮は肩に亂れ、胸に波打ち、はら/\と顏にも懸る。それを拂はうとするでもない。
 故もなく胸が騷いでゐる。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な……宛ら葉隱れの鳥の聲の、何か定めなき思ひが、總身の脈を亂してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の聲。
「私ほど辛い悲いものはない!」
 恁う譯のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。たゞ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
「吉野さんが町に、加藤の家に來てゐる。」智惠子に解つてるのは之だけだ。
 初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の容子は、今猶明かに心に殘つてゐる。然し言葉を交したでもない。友の靜子は耳の根迄紅くなつてゐた。その靜子は又、自分とあの人が端なくも汽車に乘合せて盛岡に行く時、田圃に出て手巾を振つた。靜子の底の底の心が、何故か自分に解つた樣な氣がする。
『何故あの時、私はあの人の後ろに隱れたらう?』恁う智惠子は自分に問うて見る。我知らず顏が紅くなる。
 其晩、同じく久子の家に泊つた。久子兄妹とあの人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の
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