け。』
靜子は默つて聞いてゐた。
『休暇で歸るのに見送りなんか爲《し》て貰はなくつても可いと言つたのに、態々俥でやつて來てね。麥酒《ビール》や水菓子なんか車窓《まど》ン中へ抛《はふ》り込んでくれた。皆樣に宜敷《よろしく》つて言つてたよ。』
『然《さ》うでしたか。』と氣の無さ相な返事である。
『皆樣にぢやない靜さんにだらうと、餘程言つてやらうかと思つたがね。』
『まあ!』
『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハッハハ。』
この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親戚で、十里許りも隔つた某村の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介と云ふのが靜子の一歳下の弟の志郎と共に士官候補生になつてゐる。
長男の浩一は、過る日露の役に第五聨隊に從つて、黒溝臺の惡戰に壯烈な戰死を遂げた。――これが靜子の悲哀である。靜子は、女學校を卒へた十七の秋、親の意に從つて、當時歩兵中尉であつた此浩一と婚約を結んだのであつた。
それで翌年の二月に開戰になると、出征前に是非盃事をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて歸らぬ覺悟だと言つて堅く斷つたが、靜子の父信之の計ひで、二月
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