時は、イプセンの飜譯一二册に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの評論の載つてゐる雜誌を態々持つて行つて貸して、智惠子からはルナンの耶蘇傳の飜譯を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智惠子を訪ねた。
信吾は智惠子に對して殊更に尊敬の態度を採《と》つた。時としては、もう幾年もの親しい友達の樣な口も利くが、概して二人の間に交換される會話は、恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》田舎では聞かれた事のない高尚な問題で、人生《ライフ》とか信仰とか創作とかいふ語が多い。信吾は好んで其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》問題を擔《かつ》ぎ出し、對手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲學上の議論までする。氣をつけて聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる知識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事を調子よく喋る時は、血の多い人のする樣に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した樣子をする。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に眞面目になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁う不安があつて、言はうと思ふこともつい人の前では言へなかつたりする樣になつてゐたんですが……實に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』
と或時信吾は眞面目な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。
『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演《や》りたくなつて來て、つい心にない事まで言つて了ひます。』
智惠子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑《おもわく》を心配せぬ譯にいかなかつた。狹い村だけに少しの事も意味あり氣に囃し立てるのが常である。萬一其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事があつては誠に心外の至りであると智惠子は思つた。それで成るべく寡言《ことばすくな》に、隙のない樣に待遇《あしら》つてゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍しい。我知らず熱心になつて、時には自分の考へを言つても見るが、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。歸つた後で考へてみると、男には矢張り氣障《きざ》な厭味《いやみ》な事が多い。殊更に自分の歡心を買はうとすることろが見える。『那《あゝ》した性質の人だ!』と智惠子は考へた。
智惠子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は例《いつ》に變らぬ調子で男を迎へる。信吾はニヤニヤ心で笑ひ乍ら川崎の家へ歸る。
暑氣は日一日と酷《きび》しくなつて來た。殊にも今年は雨が少なくて、田といふ田には水が十分でない。日中は家の中でさへ九十度に上る。
今朝も朝から雲一つ無く、東向の靜子の室の障子が、カッと眩《まぶ》しい朝日を受けて、晝の暑氣が思ひやられる。靜子は朝餐の後を、母から兄の單衣の縫直しを吩咐《いひつか》つて、一人其室に坐つた。
ちらと鳥影が其障子に映つた。
『靜さん、其單衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて來た。
『兄樣、今日は屹度お客樣よ。』
『何故?』
『何故でも。』と笑顏を作つて、『そうら御覽なさい。』
その時また鮮かな鳥影が障子を横ざまに飛んだ。
『ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。』
二
『あら、四五日中にお立ちになるつて昨日の手紙ぢやなかつたの?』
『然《さ》うさ。だがあの男の豫定位あてにならないものは無いんだ。雷《かみなり》みたいな奴よ、雲次第で何時でも鳴り出す……。』と信吾は其處に腰を下して、
『オイ、此衣服は少し短いんだから、長くして呉れ。』
『然う?』と、靜子は解きかけたネルの單衣に尺《ものさし》を使つて見て、『七寸……六分あるわ。短かゝなくつてよ、幾何《いくら》電信柱さんでも。』
『否《いや》短い。本人の言ふ事に間違ひつこなしだ。そら、其處に縫込んだ揚《あげ》があるぢやないか。それ丈下して呉れ。』
『だつて兄樣、さうすれば九寸位になつてよ。可いわ、そんなら八寸にしときませう。』『吝《けち》だな。も少し負けろ。』
『ぢや八寸一分?』
『もつと負けろ、氣に合はないから着ないと言つたら怎うする?』
『それは御勝手。』
『其※[#「麾」の「毛」
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