にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]風でお嫁に行かれるかい?』
『厭《いや》よ、兄樣。』と信吾を睨《にら》む眞似をして、『だつて一分にすると、これより五分長くなるわ。可いでせう? その吉野さんて方、この春兄樣と京都の方へ旅行なすつた方でせう?』
『うん。』と笑ひ乍ら、手を延ばして、靜子の机の上から名に高き女詩人の『舞姫』を取る。本の小口からは、橄欖《おりいぶ》色の栞の房が垂れた。
『長くお泊りになるんでせう?』
『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば何日《いつ》でも飛び出すだらう、彼奴《あいつ》の事だから。』と横になつて、
『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を飜《めく》る。
『え。兄樣何か持つてらつしやらなくつて、其方のお書きになつたの。』
『否《いや》、遂買はなかつたが、この「舞姫」のあとに「夢の華」といふのがあるし、近頃また「常夏《とこなつ》」といふのが出た筈だ。』
『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』
『吉野が?』と妹の顏を見て、『彼奴の詩は道樂よ。時々雜誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張洋畫の方だ。』
『然う?』と靜子は鋏の鈴をころ/\鳴らし乍ら、『展覽會なんかにお出しなすつて?』
『一度出した。あれは美術學校を卒業した年よ。然うだ、一昨年の秋の展覽會――そうら、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ畫があつたらう?』
『然うでしたらうか?』
『あれだ、夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顏をした女が、厭やな眼附をして、眞白い猫を抱いてゐたらう? 卓子の上には擴げた手紙があつて、女の頭へ蔽被《おつかぶ》さる樣に鉢植の匂ひあらせいとう[#「あらせいとう」に傍点]が咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、變な形で飛んでゐた。』
『見た樣な氣もするわ。それでなんですの「嵐の前」?』
『然うよ、その畫の意味はあの頃の人に解らなかつたんだ。日本のコロウよ、仲々|偉《えら》い男だ。』
『コロウつて何の事?』
『ハッハヽヽ。佛蘭西の有名な畫家だ。』
『然う!』と言ひは言つたが、日本のコロウと云ふ意味は無論靜子に解りつこはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]方なら何故其後お出しにならないのでせう?』
『然うさ、まあ自重してるんだらう。彼奴が今度描いたら屹度滿都の士女を驚かせる! 俺には近頃いろんな友人が出來たが、吉野君なんか其中でもまあ話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聽する樣な調子で言ふ。
『姉樣、姉樣。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がどたばた[#「どたばた」に傍点]驅けて來た。
『何ですねえ、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に驅けて!』
『でも。』不平相な顏をして、『日向先生が被來たんだもの!』
『おや!』と靜子は兄の顏を見た。先程障子に映つた鳥影を思ひ出したので。

      三

 二三日經てば小學校も休暇になる。平生宿直室に寢泊りしてゐる校長の進藤は、もう師範出のうちでも古手の方で、今年は盛岡に開かれた體操と地理歴史教授法の夏期講習會に出席しなければならなかつた。それで、休暇中の宿直は森川が引受ける事になつて、これは土地の者の齋藤といふ年老つた首席教員と智惠子と富江の三人は、それ/″\村内に受持を定めて、兎角亂れ易い休暇中の兒童の風紀の、校外取締をすることになつた。富江は今年も矢張盛岡の夫の家へは歸らないで。智惠子にも歸るべき家が無かつた。無い譯ではない。兄夫婦は青森にゐるけれど、智惠子にはそれが自分の家の樣な氣がしない。よしや歸つたところで、あたら一月の休暇を不愉快に過して了ふに過ぎぬのだ。同窓の親しい友から、何處かの温泉場にでも共同生活をして樂しい夏を暮さうではないか、と言つて來たのもあるが、宿のお利代の心根を思ふと、別に譯もなくそれが忍びなかつた。結局智惠子は、八月二日に大澤の温泉で開かれる筈の師範時代の同級會に出席する外には、何處にも行かぬことに決めた。
 それで智惠子は、誰しも休暇前に一度やる樣に、八月一日に自分の爲すべき事の豫定を立てたものだ。そのうちには色々の事に遮《さへぎ》られて何日となく中絶してゐた英語の獨修を續ける事や、最も好きな歴史を繰返して讀む事や、色々あつたが、信吾の持つて歸つた書を成るべく澤山借りて讀まうといふのも其一つであつた。
 今日は折柄の日曜日、讀み了へたのを返して何か別の書を借りようと思つてまだ暑くならぬ午前の八時頃に小川家を訪ねたのだ。
 直ぐ歸る筈だつたのが無理に引き留められて、晝餐も御馳走になつた。午後はまた餘
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