をついだ。『まあ何方《どつち》にした所で、祖母さんの病氣を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』
『然うね。』と云つて、智惠子は睫毛の長い眼を瞬《しばたゝ》いてゐたが、『忝《かたじけ》ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……あの小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然《さ》う言つて上げた方が可かなくつて? 被行《いらつしや》る方が可いと、まあ私だけは思ふわ。だけど怎《ど》うせ今直ぐとはいかないんですから。』
『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向いて言つた。實は自分も然う思つてゐたので。

      一〇

『然うなすつた方が可いわ、小母さん。』と智惠子は俯向いたお利代の胸の邊を昵《ぢつ》と瞶《みつ》めた。
『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ餘つた樣な顏をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやまあ祖母さんが何《ど》うにか、あの快癒《なほ》つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかあの、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先|何《ど》うなることかと思ふと……。』
『それやね、決めるまでにはまあ、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しく何して見てから……』
『其處《そこ》ンところはあの、確乎《たしか》だらうと思ひますですが……今日もあの、手紙の中に十圓だけ入れて寄越して呉れましたから……。』
『おや然うでしたか。』と言つたが、智惠子はそれに就いての自分の感想を成るべく顏に現さぬ樣に努めて、
『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張り梅ちやんや新坊さんの爲には……。』と、智惠子はお利代の思つてゐる樣な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた樣な氣持がして來た。
『然うで御座いますねえ。』と、お利代は大きい眼を屡叩《しばたゝ》き乍ら、未だ瞭《はつき》りと自分の心を言出しかねる樣で、『恁うして先生のお世話を頂いてると、私はもう何日までも此儘で居た方が幾ら樂しいか知れませんけれども。』
『私だつて然う思うわ、小母さん、眞箇《ほんと》に……。』と言ひかけたが、何かしら不圖胸の中に頭を擡《もた》げた思想があつて言葉は途斷《とぎ》れた。『神樣の思召よ。人間の勝手にはならないんですわね。』
『先生にしたところで、』と、お利代は智惠子の顏をマヂマヂと瞶《みつ》め乍ら、『怎うせ、御結婚なさらなけれやなりませんでせうし……。』
『ホヽヽヽ。』と智惠子は輕く笑つて、『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』
 話題はそれで逸《そ》れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智惠子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを疊んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、昵《ぢつ》と洋燈の火を瞶めて、時々氣が附いた樣に長い睫毛を屡叩《しばた》いてゐた。隣室では新坊が眼を覺まして何かむづかつてゐたが、智惠子にはそれも聞えぬらしかつた。
 智惠子の心は平生になく混亂《こんがらが》つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、――それを怎うやら恁うやら切拔けて來た心根を思ふと、實に同情に堪へない、今は加藤醫院になつてる家、あの家が以前お利代の育つた家、――四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の濱野屋の女主人として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼樣《あゝ》して寢てゐる心は怎うであらう! 人間の一生の悲痛が時あつて智惠子の心を脅かす。……然し、此悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福が湧いて來た! 智惠子は神の御心に委ねた身乍らに、獨《ひとり》ぼツちの寂しさを感ぜぬ譯にいかなかつた。
 行末怎うなるのか! といふ眞摯な考への横合から、富江の躁《はしや》いだ笑聲が響く。つと、信吾の生白い顏が頭に浮ぶ、――智惠子は嚴肅な顏をして、屹と自分を譴《たしな》める樣に唇を噛んだ。『男は淺猿《あさま》しいものだ!』と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。――嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を讀んだ頃が思出された。亡母《はゝ》の事が思出された。東京にゐる頃が思出された。
 遂に、あの頃のお友達は今|怎《ど》うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢なく寂しく頼りなく張合のない、孤獨の状態を、白地《あからさま》に見せつけられた樣な氣がして、智惠子は無性に泣きたくなつた。矢庭に兩手を胸の上に組んで、長く/\祈つた。長く/\祈つた。……
 侘《わび》しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト/\と羽目板を蹴る音のみが聞えた。

   其五

      一

 何日しか七月も下旬になつた。
 かの歌留多會の翌日信吾は初めて智惠子の宿を訪ねたのであつた。其
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